デッドリバー

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 東の空がどんどん(しら)んで行く。次第に真っ暗だった周囲の風景が、鮮明に俺の眼に映り込んで来る。対岸に見えるゴツゴツした岩肌は、風化して去年よりも小さくなっている気がした。所々にある葦原(あしはら)は、弱々しく茂るだけだ。  そして何より恐ろしい程に穏やかな海だった。波やうねりは無く、海面の所々から灰白(はいじろ)(もや)が海面から立ち昇っていて、俺は不気味ささえ覚えた。  だが俺のそんな気持ちはすぐに吹っ切れた。俺はこの日を、この瞬間をどれ程に待ち侘びた事だろうか!ついに!ついにこの日がやって来たのだから…!準備は出来ている。完璧に。もう、数週間前から、何度も確認したし、メンテナンスだって何度もした。お陰で、この数週間は、仕事もまともに手に付かなかったし、ここ数日は、己の興奮を抑える事がままならずに、寝不足なのだ。  昨日の午前八時に起床し、九時前に出社、午後五時の定時丁度に職場を出て、一目散に帰宅した。そして、道具を積み込み、車を飛ばして日付が変わる頃に、(ここ)に到着した。少し仮眠をとるつもりで、横になったのが、今年もやはり全く眠れなかった。  だが、眼は冴えている。寝不足で疲労困憊(ひろうこんぱい)のはずの身体(からだ)も、会社でのダルさと、鈍さが嘘の様に軽い。明らかに脳から、アドレナリンだかドーパミンなるモノが、出ている気がする。そして、俺は準備を進めながら、今か今かと夜明けのその瞬間を待つのだ。 “ピーン!” 午前五時三一分。胸ポケットに入れたラジオから夜明けを告げる時報が鳴った。男は、この瞬間を心の底から待ち侘びていたのだ。もう冷たい川に、胴長靴(ウェーダー)を履いて、腹まで水に浸かりながら昨年の十二月末日、実に八ヶ月ぶりに、ギラギラと黒く凪る川面(かわも)へと第一投(ファーストキャスト)を投じた。 “ポシャーン!”  男の投じた金属製の疑似餌(ルアー)は、五十メートル以上飛び、勢い良く川面に突き刺さった。その飛距離は、川幅の三分の一ほどであったが、十分な飛距離であった。  男が今、釣りをしているこの場所(ポイント)は、男のお気に入りで、毎年、毎回、絶対にこの場所で釣りをしていた。丁度、川の河口部で、海の海水と川の真水が入り混じる“汽水域(きすいいき)”なのだ。海から川を遡上(そじょう)して来る(ます)が溜まるポイントで、男はこの二十年間、漁期の間は雨が降ろうとも吹雪になろうとも、毎週末この場所(ポイント)に通い詰めている。過去にこのポイントで、大物も仕留めた事もあり、思い入れがあることもあるが、何より男はこの場所で釣りをする事が、(たま)らなく好きだった。男からすると、“人生を賭けている”と言っても過言では無く、この川の鱒類(まするい)の釣りが解禁になる十月初日には、夜明け前から必ずこの場所に陣取って、夜明けと共に竿を振るのだった。それもこの二十年間、欠かさずにだ。  そして、この場所は、今日も男の貸切状態で、周りには誰もいない。遠くに渡鳥の群れが見えるが、数百メートル以上も離れていて、釣りには影響がない。故に男も周りに一切の気を使う事なく釣りが出来るのだった。  男は、疑似餌が十数秒ほどかけて川底に落ちるのを待ってから、ゆっくりとリールを巻き始めた。疑似餌の時折、川底に当たりながら泳ぐ感触を確かめながら、獲物(さかな)がいつ食らいついても良いように神経を尖らせている。  疑似餌は数分をかけて、獲物に食らわれる事なく男の元へと帰って来た。男は次のキャストに向けて疑似餌の釣り針に、こびり付いた真っ黒くトロトロの藻を丁寧に取り除くと、大きく振りかぶって第二投目を投じた。疑似餌は勢いよく飛んで、第一投目の一メートル程、下流側に着水した。男は、先程と同じ様に疑似餌が着底するのを待ってから、ゆっくりとリールを巻く。時折川底の岩の感触を確かめながら。  そして、戻って来た疑似餌にびっちりと付いた黒い藻を丁寧に取り除くと、大きく振りかぶって、第三投を投じるのだった。男はこの動作を獲物が疑似餌に食らいつくまで延々と繰り返すのだ。『このキャストが駄目でも、次のキャストでヒットするかも知れない!』と言う妄想を膨らませたりしながら…。 “ビイィィィィィー!”  何処か遠くから終業のサイレンが鳴り響いているのが聞こえてきた。それは時刻が午後五時になった事を知らせるもので、その事業所の職員達の終業の知らせであった。  そして、そのサイレンは無情にも男に本日の釣行時間が終了した事を知らせるのだ。男は次のキャストに備えて疑似餌に付着した藻を取っている最中だった。男は綺麗に藻を取り終えると、釣り道具を片付け始めた。  この川の漁協のルールで、開漁期は十月初日から、その年の十二月末日まで。釣りをして良い時間は日の出から午後五時までと厳しく定められていたのだった。  約十二時間。男は休憩もせずにキャストを繰り返した。まるで機械の様に投げては沈めて、疑似餌が川底をかすめるようにリールを巻く。そして、疑似餌に付着した藻を取って、またキャストの繰り返しを、八百回以上ぶっ通しで繰り返して来たのだ。それも、少しの休憩もなければ、ろくに飲食もせずにだ。  男は片付けの最中に、強烈な疲労感に襲われた。それもそのはずだ。寝不足の中、いくら好きとは言え、冷たい川に浸かりながら十二時間も釣りを続けたのだから。  身体中がバキバキに強張(こわば)っていた。数日間は、筋肉痛で全身が痛む事だろう。だが、これは毎年の事だし、数回釣りに来れば身体が慣れて、何とも思わなくなるのだった。 「また来週だな…」  ボソリと声が出た。それは自分自身への(なぐさ)めでもあったが、悔しさを押し殺す為の言葉だった。獲物を釣り上げる事は(おろ)か、ヒットも無かった。それどころかアタリすらも無かった。期待に胸を膨らませていただけに、その失望感は大きかった。そして何より男は、身体以上に心も疲弊(ひへい)しきっているのだった。  陽は西の海に引っ付いて、鮮やかなオレンジ色を放っていたが、それも黒い水の前では何か不気味に見えてしまうのであった。そして、次第に辺りが薄暗くなってきた頃、片付けが大体終わったその時であった。 「よお!やっぱり今年も来てたのか!」  背後から聞き覚えのあるしゃがれ声が聞こえた。振り返ると、そこには小汚い老人がニヤニヤしながら突っ立てっていた。俺は、その小汚い顔に見覚えがあった。去年の解禁日にも、それ以前、以後にも幾度も見た小汚い顔だ。いや、それどころか俺が、この釣り場に通い始めた二十年前から毎年、欠かさず見ているし、この川に釣りに来るたびに(おが)んでいる、その顔だ。  俺は疲れていたし、面倒臭かったし、毎年の事であったが、仕方なくいつもの様に相槌(あいずち)を打った。 「爺さん…。アンタは相変わらずだな…」  すると、この糞爺は今年も嬉しそうにペラペラと饒舌(じょうぜつ)なのだ。 「ガハハハハハッ…!その顔を見ればわかるぜ!今年も当然、釣れなかったんだな!ガハハハハッ…!」  俺はムカついたが、怒る気力も無かった。そして、この糞爺には、俺の健闘を讃える事もなければ、(なぐさ)める事もせず、自分の語りたい昔話をベラベラと毎年話し続けるのだ。 「二十年前の十二月三一日(さいしゅうび)だったな!お前さんが嬉しそうに、この川から上がって来たのは!」  やはり今年も、この話しだ。この十年くらいは、解禁日には必ずこの話を聞いている気がする。俺は残りの帰り支度をしながら、仕方なく耳を傾けるのだ。 「あの頃はまだ大勢の釣り人が、この川に通ってたな!だが、今は、すっかりお前さんだけだよ!ごく稀に物好きが来ても、小一時間で帰っちまうのさ!」  俺は煙草に火を付けた。別に、こんな糞爺の自己満足の昔話なんて聞くに値しないのだが、もう俺の中では毎年、解禁日(このひ)は、この糞爺の、クソどうでもいい話を聞く習慣になってしまっているのだった。 「ワシは、そう言う奴らは、とても利口で、賢い奴らだとは思うよ!でもな!ワシは、そんな奴らは好かんわけよ!なぁ⁈お前さんもそう思うだろう⁈」  面倒くさい問いかけが来た。それを認めれば、俺は『自分は馬鹿だ』と認める事になる。この糞爺も、それをわかっていて聞いているだけに、タチが悪い。 「…。別に俺は、ただ(さかな)が釣れれば良いとは思っていない。この(ばしょ)で釣りたいだけだ」  俺がそう言うと、糞爺は少し悲しそうな顔をして少し黙った後に、また喋り始めた。 「お前さんは、どうしてこの川にこだわるんだ?」  俺は、何だか大人しくなってしまった糞爺に面食らってしまって、ついつい本心を(さら)け出してしまったのだった。 「…。忘れられないんだよ。この川で初めて、唯一釣ったあの鱒の事が。あんなに興奮した事は、今までの人生で、初めてだった。今でも昨日のことの様に脳裏に浮かぶし、夢にだって出て来るくらいさ。  他の獲物(ぎょしゅ)を釣ったり、他所の川で(ます)を釣ったりもしたが、あの日のここで釣った獲物(さかな)の感動には遠く及ばないのさ。ここの鱒は特別だったんだよな…」  俺は、我に帰った。この糞爺にらしくない事を言ってしまったのだ。きっと馬鹿にされると内心焦っていた。  だが、糞爺はそんな事はしなかったのだ。 「お前さんがあの日、釣って見せてくれた獲物が、ワシがこの川で見た最後の鱒なんだよ。次の年には異常発生した宇宙線の影響で、この川は死んでしまったからな。水は黒く濁り、川底や石には正体不明の黒い藻に覆われてしまった。それ以来、鱒は遡上(かえって)こないし、他の魚も川虫も、全く見なくなっちまったからな…」  こんなに悲しそうな顔をする糞爺を見たのは初めてだった。いつもの武骨で、荒々しい様は影を潜めていた。俺はこの時、心の底から寂しさが押し寄せてきて、知ってはいたが、見ない様にしていたし、認めなかった現実を突き付けられた気がした。  しばらくの無言が続いた。そして、俺は口を開いた。 「ところで爺さん。もうこの川には漁協もなければ、取り締まる義務やルールも存在しないんだろ?なのに何で爺さんは川を見張ってるんだ?」 「ワシは物心ついた頃から、この川と共に生きて来たんだよ。たとえ川が死んじまったさても、ワシが死ぬまでは、この川を見守ってやると決めてるんだよ」  その言葉に俺の心は、救われた気がした。(あきら)めと失望、虚無感がフッと和らいだのだ。 「それを言うなら、お前さんも、もうこの川には守るべきルールもリミットもないぞ。なのにどうして、わざわざ解禁日と漁期を守るんだ?」 「何でだろうな…。確かに鱒は、もっと早い時期から遡上(そじょう)しているし、十二月以降も、戻鱒(もどります)が狙えるはずではあるが…」  糞爺は、歯切れの悪い俺を見て嬉しそうに笑って言いやがった。 「お前さんの律儀(そういうなところ)は、すきだぜ!」  俺は、何故か少し笑った。そして、何も言わずに何本目かも忘れた煙草の火を消して、荷物を背負った。帰る為に車に向かって、川辺を歩き始めた。すると糞爺が言った。 「来週も来るんだろ?」  俺は振り返って言った。 「ああ。もちろん」終
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