秋の味覚

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秋の味覚

 秋風を浴びたい。  窓の外に大気の渦巻く音をききながら、私はぐずぐずとごねるように鼻をすする。風邪だ。季節の変わり目だ。加湿器がはたらく清潔な部屋で、健康的な空気を胸いっぱいに吸い込んで高い空を仰ぎ見る日を夢みている。三日くらい前に出掛けていて、そのとき存分に楽しんでいるんだけど。  かちゃりと優しい音でドアが開き、大希が入ってくる。「美羽ちゃん、熱はかろーね」伝染るよって再三いったのに、今の通った声を聞くにまたマスクをしていない。一生懸命からだを捩ってベッドの側についた彼の様子を窺うと、持ってきたトレーをサイドテーブルに置くところだった。ほら、マスクしてない。改めて注意しようかとも思ったけど、今の私の喉はひどく腫れていて言葉をつくれないので、面倒になって諦める。知らないよ、もう。 「食欲ある? お昼少なかったから、おやつにって持ってきたんだけど」言いながら白いミニボウルにスプーンを挿すので、重い頭を持ち上げてかろうじて中を覗ける位置まで身体を起こした。 「…!」  私は短い悲鳴を上げた。本当は「あ!」って叫びたかったんだけど、鵞鳥が絞められるときの断末魔みたいな音しかでない。ぎょっとする大希をよそに、側に置いていた筆談用のメモ帳をとり、あわてて書き殴る。 『アップルパイにするっていってたやつ!!』  ひゅうひゅう言いながら全霊をかけてそのメモを突きつけると、ちょっと怯んで仰反って、それから困ったように笑った。「だって、喉いたいでしょ」  ボウルには擦り下ろした林檎が盛られていた。でも、だって。アップルパイにするって言った。それを楽しみにして、いちばんおいしそうな林檎を選んだのに。  ごめんね、悪くなっちゃうから、とふわふわ笑う恋人を前に私は涙目だ。私が、風邪なんかひいたから、たのしみにしていた予定がいっこ崩れた。なんだかそれが悲しくてしかたない。それに追い討ちをかける高熱で、わけもわからず取り返しのつかないことになったような気持ちに苛まれていた。うそつき、って口をぱくぱくさせるのを読み取ったらしい彼が「また作ってあげるよ」と私を慰める。ああ、風邪なんかひいたから。かっこわるい。 「風邪ひきの美羽ちゃんが今いちばん美味しく食べれるようにって用意したんだ。いらない?」  三十九度の体温を抱きしめながら、三十六度の大きな身体がやさしく拍動する。ひとの肌はどんなときでも心地よくなるように出来ているのかなあなんて思って、少し落ち着いた。首をふる。のろのろと、肩越しには分かるわけないのに「よかった」って返ってくるから不思議だ。背中に目でも付いてるのだろうか。  きちんとベッドに座り直していただきますをする。スプーンで少しずつ繊維のくずれた林檎を口に運ぶと、やっぱりパイ生地の中できらめいてバターの香りを身に纏いながら焼き上げられるはずだった可愛い果実を哀れに思ってしまう。だけどふわふわと、きゅんとした味を連れて、舌の上から熱を取り去ってくれる素朴なデザートはやさしくやさしく私を励ました。  秋が終わる前に必ずもう一度迎えに行くからね。今度こそ、お姫様みたいな素敵なおやつにしてあげるからね。  結局ぐずぐず泣きながら食べている私を、彼もまた、包み込むように眺めていた。 (20191010) タグ企画「メロウ・キッチン」
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