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二話
「圭人……食べないの?」
「今はいい。先に食べて」
何かがおかしい──。
じとりと額に滲む汗を手の甲で拭って、自分でも分かるほど熱を持った息を吐き出した。
おかしいのは今置かれているこの狂った状況そのものだけど、それだけじゃない。ドクドクとわざとらしいほど脈動を打つ心臓、額に滲む汗はただ単に室温が高いからなのか。体の奥の方から全身を駆け巡るような熱に、無意識に口元が歪む。いや、やっぱり明らかに体がおかしい。
あの水か──。
テーブルの下に転がる数本の空のペットボトル。確かに毒のようなものは入っていなかった。といっても、そういう知識があるわけではないし時間差で体に何かがおきない保証はないけれど。でもかなり時間の経った今でも命に関わるような症状は出ていない。この、じりじりと追い詰められるように体中に広がる熱以外は。
「圭人、大丈夫?」
「……あぁ」
「ねぇ少しでも食べて。この先どうなるか分からないし……」
不安そうに俺を見る瞳にさえ不自然なくらい体の奥が疼いた。咲希はこの正体にまだに気付いていないだろうが、俺には分かる。
これは『そういう薬』のせいだ。水の中に混ざっていたに違いない。そうじゃなければ、あんなこと──。
「んん……っ、ぅ……」
唇を合わせるだけでいい。そうするだけでキスだと認識されるはずだ。頭ではそう分かっているのに、小さく開いた唇の隙間に俺は容赦なく舌を差し入れた。この異常な空間で頭でもおかしくなったか?微かに残る理性の中で必死に脳みそを働かせてみるけれど、そんな余裕があったのもほんの一瞬だった。
「んっ……は……ぁ」
「……っ、は……」
静かな部屋に響く水音が、耳の奥を刺激して徐々に意識が支配されていく。だめなのに、もっと欲しい。行き場所を失った細い指がくしゃりと俺のシャツを掴むと、その感触にさえ電気が流れたような衝撃が走った。
「圭……人っ……」
「……逃げるな」
なんだこの感覚。腰を引き寄せてもっと深く唇を重ねると、絡め合う舌から感じる熱も、唇の縁から溢れる雫も、脳が受け取る全ての快感に理性が溶かされていくみたいだ。
キスだけなのに、こんなのまるで──。
「あ……!ま、待って圭人……っ」
驚いたような咲希の声に、朦朧とした意識のまま目の前にある濡れた咲希の唇に視線を落とした。そしてその先にある信じ難い光景に、思わず息を呑む。
「……っ、ごめ……」
無意識のうちに指をかけていたリボンから慌てて手を離すと、息を切らした咲希の頬にまつ毛の影が落ちた。
俺は一体今何をしようとした──?
「悪い。違うんだ……」
「だ……大丈夫。嫌だったわけじゃないの……嫌だったわけじゃなくて……」
何が違う。俺は今明らかに理性を失いそうになっただろ。何度も耳に届く大丈夫に、出しかけた言葉を飲み込んだ。俺もお前も『大丈夫』なんかじゃない。少なくとも俺はもう、とっくに大丈夫なんかじゃないんだ。
重苦しい雰囲気を紛らわせるように、ドアの前に転がった袋に視線を移した咲希は慌ててそれを手に取った。
「圭人……とりあえず食べよう」
「もういいのか」
数回口に食べ物を運んだきり動かなくなった箸を見て、思わず顔を覗き込んだ。
「うん……なんだか上手く飲み込めなくて」
こんな状況じゃ無理もない。咲希は苦しそうに口にしたものを飲み込むと箸を置いた。
「水が飲みたいけど……どれも空っぽだね。新しく出さなきゃ」
先ほどとは違って、咲希は自然に小さく息を吸う。
「圭人、す……」
──だめだ、あの水は。
『き』
その一文字を残して、俺はもう一度手のひらで咲希の口元を押さえた。
「……っ」
「悪い。水はもう少し我慢して」
咲希は小さく目を見開いた後、申し訳なさそうに目を伏せる。
「ごめん勝手なことしようとして」
「いや、違うんだ。あの水は……」
──『媚薬』が入っている。
なんて、そんなこと咲希に言えるわけもなくゆっくりと手のひらを下ろした。
「水……何かあるの?」
「いや、いつまで出てくるかも分からないし、少し節約した方がいいかと思って」
「……そうだね、分かった」
何かを口にしたことによって更に喉が刺激されたのか。分かったと納得したものの、咲希は渇いた口元を湿らすようにぺろりと唇を舐めた。
ズクン。
薄いピンク色の唇が透明な液で濡れると、自分の口の中までじわりと湿る。まるで脳みそがそれを求めているかのように。薬のせいだと分かってる、分かっているけど。
「圭人……?」
「は……っ」
「大丈夫?具合悪いんじゃ……」
「っ!触るな!」
駆け寄って俺の腕に触れようとした手を思いっきり振り払うと、咲希はその勢いで後ろのベッドに倒れ込んだ。
「……っ、悪……」
慌てて起こそうと立ち上がるけれど、目の前の光景に頭の奥がぐらりと揺れた。
「大丈……っ、ぁ!」
スカートから伸びた白い足。薬のせいなのかこの部屋にいるせいなのか、不自然に乱れた咲希の吐息。白いシーツに広がる長い髪も、紅く染まる頬も、細くて華奢な手首も、何もかも。
俺のものにしたい。
「……っ、圭……ぁ、待っ……」
"圭人"
咲希は特別だった。愛想のない俺にかまわず他の奴と絡めばいいのに──いつもそんなことを思いながらも、俺の名前を呼ぶ声に思わず足を止めてしまう。人と関わるのは面倒くさいはずなのに、不思議と咲希だけは気になって仕方がなかった。
好きなんだろうな。
数ヶ月前、やっと自分の気持ちを自覚した。今まで無意識に考えないようにしていたのか、いざ自分の気持ちと向き合ってみるとあっさりとその答えに辿り着く。
でも──別に恋人になりたいとは思わなかった。というよりも、咲希にはもっといい人がいると思ったという方が正しいかもしれない。確かに俺に嫌悪感があるようには思えないし、むしろ好意的であるとすら自惚れる時がある。それでも、俺にはもったいない相手だ。もっと優しくて、愛想のある、お前のことを大切にしてくれる男と一緒にいる方が幸せなんだろうなって、本気でそう思っていた。どう表現していいのか分からないけど、好きだからこそ誰よりも幸せになれる相手といてほしいと思ったんだ。
それが俺なりの好きの気持ちなんだって──。
「ぁ、っ……ん……」
数分前までその気持ちは変わらなかったはずなのに。
──頭がくらくらする。漂う香りに誘われるように舌で首筋をなぞると、その甘さに舌先が痺れた。太ももを辿る指は白くて柔らかい肌に沈んで、触れているだけで体の奥に熱が集まってくる。
「は……っ、甘い」
理性と本能が脳みその中を行ったり来たりする。だめだと分かっていても、自分の意志とは関係なく指先はもっと深い場所を求めた。息も、声も、匂いも、感触も……全てが刺激なる。
どうしたらいい。いや、もうどうしようもできない。ほしい。今目の前にいる、好きな人の全てがほしい。
「ぁ……っ、圭人、好……き」
ガコン──。
甘い吐息に包まれる部屋の中で全てが本能に飲み込まれそうになる瞬間、短い呼吸に混ざった掠れた声に金縛りにあったように動きが止まった。コロコロと転がるペットボトルが視界の端に映る。
「好き、だから……いいよ」
その空間に小さく滲んだ咲希の声に、不意に情けなくて泣きそうになった。
「……っ、悪い」
熱に侵されていた頭が正気を取り戻すと、触れ合っていた体を離して、震える手を片方の手で握りしめた。
何をしている。こんなの犯しているのと一緒だろ。何も知らないであろう咲希を相手に何をしようとしてんだ。好きな相手にこんなことをするべきじゃない。だめだ。しっかりしろ。
ぶんぶんと頭を振りなが、深く息を吐く。
「咲希、落ち着いて聞いて」
「な……に?」
「あの水には毒は入っていないけど、薬が入ってる」
「薬……?なんの?」
少し躊躇いそうになるけど、こうなった以上ちゃんと伝えたほうがいい。俺がこうなる理由、それを受け入れようとしてしまう咲希の理由。
「──媚薬」
「びや……く?」
「こんなのに振り回されるのは悔しいけど、俺は今正常じゃない。咲希、お前もだ」
咲希はその言葉の意味を理解したのか、何度か頷いた後に視線を左右に彷徨わせた。
「薬の、せい……」
「そう。体が熱くなって、その、理性が働かなくなるというか」
「……圭人に、触れほしいと思うのは、薬のせいだってこと?」
「……っ、やめて。今はそういう言葉もいちいち耳に残るから」
呼吸を落ち着かせるように、何度も大袈裟なくらい深呼吸をする。滲んでいた汗が頬を伝ってシーツへ落ちるのを目で追いながら、あの柔らかい肌へ触れたくて震える指をぎゅっと握り締めた。
「圭人は……苦しく、ないの?」
「え?」
「は……っ、私は、苦しい……」
潤んだ瞳が目の前で大きく揺れる。
なんで。やめてくれ。
「これは……薬のせいなの?」
「そう、そういう薬だから。きっとしばらくしたら徐々に楽になる……だから」
「ふ、触れたいよ」
ズクン。
また心臓が大きく波打つ。
「圭人に……触れたい」
「だから……っ、それは薬の」
「触れたいの……」
無理だこんなの。
好きなのに。
今目の前にいるのは、自分の好きな人なのに。
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