白鳥の夜

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 彼女の肌はあまりにも白い。血が通っていない、もしくは色のない血がながれているのではないかと疑いたくなるほどに。  下校の鐘はすっかり鳴り終わっている。自主練の名目で残ったレッスン室には私たちふたりしかいない。最近は日が落ちるのがめっきり早くなって、窓の向こうはもう夕闇だ。  くるくると、輪を描くためのリボンをひと振るいして巻き取る。かばんを引き寄せて帰りじたくを始める。彼女はまだストレッチをしている。じきに帰るので電気を点けておらず、薄闇に彼女の白い肌がぼうっと浮かんでいる。  こうやっていると、と腕を天井に差し伸べて彼女が言う。 「腕が羽に変わっていく感覚。分かる?」  真似して腕を上げてみる。羽が生えてくる、指先に、手首に、肘に、二の腕に、密生して、重なり合って、 「大人の白鳥よ」  彼女の声で質感もリアルに、一枚一枚に硬い芯があり、ビロードのような手触りの本物の羽。肩甲骨が付け根になっていて、腕を動かすように自在に操れる。羽ばたけば風が生まれる。私はいい気持ちになって、腕をばたつかせながら結い上げた髪をほどく。彼女はもっと優雅な所作で、 「それであたし、バレリーナみたいに白鳥の踊り、するの」  首を長く伸ばし、部屋の黒い床は夜の湖に変わる。練習室の東の壁は一面ガラス窓で、湖の床はそのまま外の夜景に溶けていく。まばらな民家から漏れる灯りは星と見分けがつかない。雑木林も影絵になってしまえば、どこか異国の深い森。彼女ったら、レオタードも白いのだ、まるきり白鳥……。私の想像の白鳥じゃなくて、正真正銘の、森の湖で嘆く一羽の鳥だ。  でもあの物語ではオデット姫が白鳥に変えられてしまうのは昼のはずじゃなかったかしら。目は彼女から逸らさずに、『白鳥の湖』のストーリーを思い浮かべる。そう、悪魔に呪いをかけられたお姫様と王子様の悲恋の物語。  では今ここにいる鳥は、どんな神話の鳥だろう。時が経つほどに輪郭もどんどん鳥になって、私の足元には彼女の起こした水紋が寄せる。  私は自分の演じるべき役目を見出せずに、せめて夜のとばりの一部であれるよう息を潜めている。紺色のレオタードでよかった。闇に紛れられるし、もし漆黒だったら悪魔の娘役として躍り出て、三十二回転しなければならないところだった。  明日、昼の教室で会ったら、人間の彼女に聞いてみよう。バレエが好きなのね。どうしてバレエ教室に通わないのって。きっと彼女は、新体操の方が好きになったからって言うわ。昨夜のは、ほんのお遊びよって。白鳥の彼女は綺麗、だけれど彼女は新体操部のエースなんだもの。  でも本当に夜明けは来るかしら。  疑いたくなるほどに闇は深く、彼女は生き生きと舞う。
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