子狐

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子狐

「食べながらお喋りしないで」 「ピアノの練習の時間よ」 「テレビから離れて」  私は、毎日飽きるほど投げつけられる大人からの命令全てに、「はい」と答えます。  お友達には優しく。別け隔てなく誰とでも仲良く。遊ぶ時や何かを貰った時は笑顔。お友達が泣いていたら悲しい顔。大人の世界には、場面場面での相応しい態度や表情というものがあって、子供が正解の振る舞いをすると、大人は安心したり喜んだりするのです。  気をつけなければならないのは、困ったり嫌なことをされた時です。勿論、泣く、が正解ですが、声を押し殺してしくしくと静かに泣かなければなりません。適度な頃合いで泣き止むことも重要です。いつまでも続けていると、「可哀想」と思うことに大人が飽きてしまうからです。大人が「あらあら、どうしたの?」と優しく駆け寄れて、「もう大丈夫ね。いい子いい子」と気持ち良く立ち去れるようにしてあげるのが、泣く子供のマナーと言うものなのです。  大人の気持ちを守ってあげると、大人はみんな、私を大好きになってくれるのです。私が本当は何を感じ、行動しているのかなんて、知りもしないで。大人って、なんて馬鹿。 「美月(みづき)ちゃん、こっちへいらっしゃい。ご挨拶して」  お母さんが私を呼びます。「はぁい」といつも通りにはきはきと返事をして、声のした玄関へ向かいます。走ると足音が五月蝿いし、お行儀が悪いので、早足で行きます。これが正解。  お客様の前で私が正解の態度を取ると、お母さんの手柄になります。私はそれを少し失礼だと感じるのですが、お父さんが仕事から帰ってきて、お母さんがその出来事を嬉しそうに話す時には、もやもやした気持ちは消えてしまいます。 「こんにちは。お隣に引っ越してきました、鈴本です。この子は(あん)。明日から、美月ちゃんと同じチューリップ組になるのよ。よろしくね」  白い服と黒いズボンの、痩せたおばさんです。そのお尻のあたりにしがみつき、青白い顔を半分程隠してこちらを気にかけているのは、私より幾分か背の低い、灰色の服を着せられた痩せっぽちの女の子。  私の心は浮き立ちました。だって、彼女を見た瞬間、とても素敵なことを思い付いたのです。 「アンちゃんって言うの? 素敵なお名前ね! ねえ、私たち、腹心の友になりましょう?」 「……?」  何を言われたのか、分からなかったようです。この、あまり可愛くない、とても大人しい女の子は、私のようにたくさんの言葉を知らないのでしょう。 「美月ちゃん、随分難しい言葉を知っているのね」 「寝る前に少しずつ赤毛のアンを読み聞かせていたら、変な言葉ばかり覚えちゃって。そんなつもりじゃなかったんだけど」  嘘です。お母さんは、難しい言葉が出てくると、事細かに説明して、覚えさせようとしてきます。 「ううん。凄いわぁ」  お母さんの嘘を素直に信じて感嘆するなんて、このおばさんも、真実を穿つ目は持っていないようです。私は、表面的で単純な大人たちを無視して、自分の目的のための行動に移ることに決めました。 「可愛いキツネさんだね。アンちゃんのお友達?」  褒める所が他に無いので、女の子が抱えているキツネのヌイグルミを褒めてあげます。自分の持ち物や外見を褒められて喜ぶのは、大人も子供も一緒です。女の子は、背中の後ろにヌイグルミを隠しながらも、「……コンコンちゃん」と、小さく答えてくれました。 「コンコンちゃんっていう名前なのね! 私もコンコンちゃんとお友達になれる?」  女の子が、こくりと小さく首肯きます。 「美月ちゃんって、しっかりして快活なお子さんね。うちの子、引っ込み思案で、こんなだから明日からの幼稚園が心配で心配で…… 美月ちゃんみたいな良い子がお隣で良かったわ。本当に心強い」  おばさんが、感心しきりと言った様子で私を褒めます。それを聞いたお母さんが、「そんなことないわよ」とでも言いたげに、困ったふりの笑顔をしたので、私は少しムッとしました。それでも、きっと今夜、蕩けそうな顔をしてお父さんに報告して、二人揃って褒めてくれるのだ、と思い直します。その時を想像すると、誇らしさでスッと背筋が伸びます。  私は、目の前の貧相な女の子に、私の持っているピンク色やラベンダー色をしたたくさんの綺麗な物を、見せてあげても良いと思いました。色とりどりの可愛らしい物の中で小さくなる、くすんだ女の子の姿は、私を楽しい気分にさせてくれるでしょう。 「アンちゃん、お部屋に来る? 宝物、見せてあげる。そうだ! ビーズで作ったプレスレット、いっぱいあるの。好きなの一つあげる。お揃いにしようよ」    手を差し出すと、女の子は背中に隠していたヌイグルミをおばさんに渡して、そっと私の手を取りました。 「コンコンちゃん、持って行かなくて良いの?! えー? えー? コンコンちゃんがいないとダメな子なのに……」  その言葉に、心の中でほくそ笑みます。だって、私を「弱虫で一人ぼっちの可哀想なお友達を気にかけてあげる、心優しい良い子の美月ちゃん」にしてくれるアイテムを、今この瞬間、手に入れたのです。  子供らしい屈託の無い純真な笑顔、というものを顔に貼り付けて、私は新しいお友達の手を両手でぎゅうっと握りしめました。 「嫌な子がいたら、私が守ってあげる。これから私達、いっつも一緒よ。よろしくね!」  私の言葉と仕草に、大人たちが、ほうっと安堵と感嘆の溜め息をつくのが分かります。私は勝利者です。そして、灰色のお友達を従えて、この先もずっと勝利し続けるのです。 「あの…… こちらこそ……」
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