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「僕には詳しい事は何も。もっと年配の方なら何か知っているのかも知れませんがこれ以上は……失礼します」    人の噂なんて尾鰭がついて真実は霞んで伝わる。社会情報は必要なのかもしれないが、閉鎖的に暮らしてきた僕とこの街にとって、全てを伝える判断は出来ない。  あの男が余計に街を掻き乱さなければいいなと願わざる得ない。平凡で穏やかな日々が過ごせればいいのだが。  その後、由夏の口数は明らかに減った。先程までの明るさもなく元気もなければ、帰りの道中は暫く俯きながら何やら考え込んでいる様子だった。  僕からも話しかけにくい雰囲気だったので、由夏の歩幅を合わせながら帰路に着くと、互いに部屋に戻った。    僕は簡単な夕食を済ませると、いつもの日課を始めた。天体観測だった。  小型望遠鏡を片手に、二階の廊下の突き当たりから階段を登ると屋上に出る。梅雨明けの夏空を眺めるのが最近の日課だった。    屋上を出ると向かいの部屋にいる由夏の窓にはカーテン越しから明かりが溢れていた。  アイピースを覗きながらピントを調節する。梅雨が明けて晴れ渡る夜空を眺めると、土星の特徴である二つの環が確認出来た。    大気の状態が良ければ、土星の縞模様が見れる美しい星で僕は好きだった。   マイワールドとも言うべき時間に浸っていると、微かに僕の名前を呼んでいる声が聞こえていた。  空耳か、或いは疲れからなのかと望遠鏡から顔を上げて目頭を揉んでいると視界の隅に何かを捉えた。  屋上の隅まで近づくと向かいの部屋、由夏が窓から両手を振っていた。 「そっち、行っていい?」  夜も遅いから周囲に気を遣っているのだろう。小声ながらも道路を隔てた距離の為、辛うじて由夏の声が聞こえた。  僕は大きく両手で◯を作り、次いでに満面の笑みを送ってやった。由夏に伝わったのだろう。由夏は部屋の中に戻って行った。    一旦、一階まで戻ると勝手口の扉を開けた。すると由夏が既に待っていた。 「天体観測? そんな趣味あったの?」    由夏は白のスウェット姿だった。微かに石鹸の香りがして妙に艶やかさを感じる。風呂上がりなのは明白だった。 「なかなかお洒落な趣味だろう?」  屋上に身内以外を案内したのは初めてだった。勿論、春菜さんも案内した事はない。  屋上に出ると由夏は無邪気な子供のように周囲を見渡していた。  僕は「あっちにあるのが香取神宮、あっちが霞ヶ浦」と教えてやった。    せっかく教えたにも関わらず「暗くてよくわかんない」と言われる始末。  そりゃそうだと思いながらも気を取り直して今度は望遠鏡を覗かせた。  ピントの調整の仕方など簡単に教えると「うわぁ、すごい」と今度は感嘆している様子だった。  僕も親父に初めて見せられた夜空に感激した。不思議と見ていると心が落ち着いてくる。  この地球という星が宇宙の広さからすれば、小さな星に過ぎない。その中の人間なんてもっと小さい存在。  この時間の時だけは普段の悩みや苦痛を忘れられる時間だった。
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