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 だって殆ど、話すら誰ともしないのだから。  誰とも視線を合わさないし、返事は首を振るだけ。  誰とも会話をしていないのだから、どうしようもない。  だから考えられる理由は、単純に面白がっているだけ。  若しくは気に食わない事があって、それの吐口とされているだけ。  女性特有の陰口、小言のオンパレード。信頼がないから裏切りもない。  希望がないから絶望だけの世界。頑張れ、負けるなと言われる事のない虚無な現実。  夢を持てと大人は言うけれど、夢すら持てない状況と環境。何故、こんな日々を過ごしているのだろう。  何故、私はこの世に生を授ったのだろう。何の為に、生きているのだろう。  次第に自問自答を繰り返す日々が始まった。何か答えが欲しかった。私が生きている理由を。  自分で見つけろと周囲は言うのであれば、せめて最低限の生活を送らせて欲しい。  それすらままならないのに、そんな無責任な事を何故言えるのだろうか。  そんな事を考えていたら、次第に生活のルーティンが出来た。  一つは下校の際に河川敷に立ち寄って、利根川を眺める事。  川の流れを見ていると、時間の流れを実感する。  風が強い日は流れが早くなり、穏やかな時はゆっくりと流れる。  ただ眺めているだけなのに、妙に心が落ち着く。さらにそこでの楽しみが一つ増えた。  蟻や昆虫、蝉の死骸を眺める事。無駄な殺生は決してしない。  仰向けになって生き絶えた死骸から、死というものに興味を持ち始めた。  滑稽で無様を非難するつもりはないけれど、彼等彼女達は何を思い、何の為に生きて死に繋がったのか、答えが出ない私からすれば諸先輩に教えを請いたかった。  昆虫に喜怒哀楽の感情はあったのか。生きる目的は達せられたのか。  それとも不本意な突然の死に無念はあったのか。  辛うじて繋いでいる細い糸のように、私の死生観はこのままでは崩れてしまいそうだった。  そこからもう一つのルーティンは、高校の図書室で哲学書を借りて自宅に持ち帰り、河川敷で読み耽る事。  主に哲学者のソクラテスの本が私には合っていそうだった。  つまり先人達の教えを私の死生観に落とし込んだ時、果たしてすんなり答えは出るのか実験だった。    一説にはソクラテスは生を一種の病と捉え、死はその病を治癒する事と考いた。  輪廻転生を繰り返し、魂を浄化させる仏教のような考え。  彼は死刑判決を言い渡された際にも、死は悪いものだと限らないとさえ言ったみたいだ。  そこから様々な哲学書を読んだが、正直私にはわかりそうでわからなかった。  ニーチェは永劫回帰という、現在の経験を過去や未来でも同じ環境で同じ出来事が起こると説いたらしい。  だとしたら、身に起きているこの環境から脱する事が出来ないのであれば死は無意味になる。  世間一般の死に対する捉え方は、恐怖や悲しみが殆ど。  生に対する希望や憧れ、目標や生き甲斐のない私には恐怖もなく、誰かが悲しんで憂いてくれる人はいないに等しい。  その世間一般とズレた私が既に生の病にかかっているのか、どうなのか判断が欲しい。  このまま生き続けるべきなのか、或いは死んでいいものなのか。  どちらにせよ二択なのだが、どちらも一長一短。  両方、体験してみたい気持ちはある。どちらが自分に合っているのか、まるで服を買いに行くような感覚。  片道切符の賭け事のリスクに、その後もあらゆる哲学書を読んで精査した。
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