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僕は何がしたくて、何が好きで、何が一番夢中になれるのだろう。
薄らとぼんやりとした焦りや不安を抱えながら、この街で生活していた。
夕方前になれば春菜さんは娘がいるので帰ってしまう。
帰り間際、もしかしたら春菜さんに宛に電話がかかってくるかもしれないと言われたが、明日かけ直すと伝えてくれと言われた。
その時、春菜さんに言われたと思うが、肝心の客の名前を覚えていなかった。
案の定、春菜さんが言っていた借家のオーナーから電話があった。
何でも賃借人が退去して売買をやりたい。お願い出来ないかとの事だった。確か親父は売買に消極的な考えを持っていた気がする。
一先ず、言われた通り明日、かけ直す事を伝えて電話を切った。
切った瞬間、春菜さんはこの案件をどう処理するのだろうとぼんやり想ったが、すぐに考えは消え去った。
どうせ僕には関係がない事。
今日も一日が終わろうとしている。ようやく十八時を過ぎた。
店の営業時間は十八時三十分。外は薄明るいが、三十分くらい早く閉めても誰も文句は言わないだろう。
平日のこんな時間に客も来る訳ない。元々廃れた看板目掛けて訪ねてくる客はいないだろう。
重い腰を上げると、既にシャッターが下されている向かいの文房具屋の前で、廃れた小汚い上下ジャージ姿の人物と目が合った。
走り目程度だったが、いかにも着の身着ぬままで飛び出してきた家出女の雰囲気。
すると向こうも僕をじっと見ていたが、僕より先に視線を逸らした。
知った顔をぼんやりと思い浮かべたが、どうも家出女と似つかない。
さっさと風呂に入り、十九時から始まるバラエティ番組でも観ようと決めていたけれど、妙な胸騒ぎを覚えた。
店内側からシャッターを下ろそうと両手を伸ばした。
「……星哉くん?」
確かにそう聞こえた。あまりにもか細い声だったから空耳かと思った。
一旦、シャッターを掴んだ両手に込めた力を止める。余韻を噛み締めた時間は約三秒程度。
結論は気のせいだと下した。
今度はシャッターを下まで下ろした。
よし、あとは店内の消灯をするだけと踵を返した瞬間、目の前のシャッターが揺れて外側から衝撃音が響いた。
心臓が飛び出る程の衝撃音。
音の隙間から僅かに聞こえる「開けろーーー、せいやぁぁぁ」の声。
心当たりは全くない。
全くないが、さっきの空耳と確かに僕の名前を呼ぶ女性らしき声。
恐る恐る「なっ、何ですか?」と衝撃音が鳴り止んだ後にシャッター越しに尋ねた。
最低限の防衛ラインは死守しなければならない。
「私、私よ。由夏」
若干、やけくそ気味な言い方が鼻についた。
いきなりシャッターを殴り、自己主張強めのこのアプローチを食らった側に対する言動ではない。非常識も甚だしい。
そこで『ゆか』という女性に覚えがないか、記憶を辿ろうとした時、頭痛が襲った。
痛みに辛うじて耐えられる程度の強さだったが思わず、膝をついて頭を抱え込んだ。
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