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「この街には、九番とはちがっていくつかのチャンスがある」  父はいつも得意げにそう(うそぶ)いていた。  事故にあうまえ肉体労働を生業(なりわい)としていた父は、日々の過酷な労働の対価として得た鋼の肉体を武器にして、〈闘技場〉の三部リーグへ参加するようになっていた。  父は、もともと短気な性格で喧嘩っ早く、そのために日常茶飯事になっていた路地裏でのケンカでによる鍛錬の成果もあって着々と順位をあげていき、事故の直前にはもうすぐ二部リーグに手が届くまでになっていた。そんな荒っぽい性格が遺伝することはなかったが、それでもトキオにとってその当時の父は、誇りであり憧れでもあった。 「二部リーグに上がれば、生活はぐっと楽になるぞ」  そう誇らしげに語る父の笑顔を今でも忘れられない。  そんな父が血まみれで家に運びこまれてきたのは、二部リーグへの昇級がかかった大事な試合の前日だった。父を運びこんできた友人の肉体労働者、ゴルビー・スケッチによると、仕事を終えてともに帰途へついた父の背中をめがけて黒ずくめの男がなんの前触れもなく体当たりをしてきたという。呆気にとられる間もなく男は走り去り、父がとつぜん膝から崩れ落ちた。父は腰を刺されていた。  ゴルビーは慌てふためきながらもようやくのことで血まみれの父を家まで連れてきたと言い、深くため息をついて「ほんとうに残念だ」と言って踵を返すと、「おれの役目は終わりだ」と言わんばかりに一顧だにせずあっさりと家を出て行った。  刃傷沙汰が日常茶飯事のこの場所では、それもしょうのないことだったのかもしれないし、思い返してみると、あの頃の父は色んな場所で様々な恨みを買っていたのだろうと思う。  だが、そのときはそんな父に恨みを持つどこかのだれかのことを考えている暇はなかった。そのときひとりで留守番をしていたトキオは、母が仕事から帰ってくるのを待つこともできず、スラムに四軒ある闇医者の、そのなかでもとくに評判の悪い――それなのになぜか金回りの良い――鷲鼻のスキッピオのもとへと駆け込み、興奮を抑えることもできずにたどたどしく父の容態をつたえ、眠たげに目をこする酒臭い闇医者を家まで連れてきた。  闇医者はなおざりに父を診察し、「腰をやられているが、そこまで深い傷でもない」と面倒くさそうに言って、消毒すらしていない器具で父の傷口を乱暴に縫いあわせ、提示した高額な治療費を母へことづけておくようトキオに言ってすぐに帰っていった。  いま思えば、家からいちばん近かったというだけの理由でスキッピオに治療を頼んだのはおおきなまちがいだったが、それもあとの祭りで、父を刺した凶刃は不幸なことに脊髄まで達していて、それが原因で父は下半身不随になり、なによりも夢を断たれたショックによって寝たきりになってしまった。  あの日からの忌まわしい日々を、どんなに忘れようとしても忘れられない――  ――だが、そんな日々も今日で終わりにできる。いや、終わりにしてやるんだ。  金看板から目を落とすと、視界の隅、守衛所のわきのすぐ側に赤い首輪をつけ、頑丈な鎖でつながれたみすぼらしい番犬の姿があった。  その血走った目が、トキオをじっと見据えている。  あの目は昨日までのおれの目だ。  生きる意味を、幸せの意味を知らない憐れな番犬の目。  あんな、強者に縛られているような生き方を今日から変えてやるんだ。  誓いを胸にして、トキオはレース場の門をくぐった。
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