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 三十勝記念のパーティー会場ではじめて出会ったその男は、 「大したタマだな、トキオ・ユーノス」  と笑い、黒い革手袋をしたままの右手で握手を求めてきた。 「ありがとうございます。あなたが……?」  手を握り返して訊ねると、 「アルビン・ゲイ。お前のあたらしいオーナーだ」  と男は名乗り、トキオの手を強く握りかえしてきた。  アルビン・ゲイはこのレース場を仕切る、六番街で二番目に大きな組織の幹部であり、主にレース場の運営をまかされながら私設のチームをいくつも所有するVIP中のVIPだった。その中のひとつのチームには現在レース場のチャンピオンである、レイ・ハスナガが所属しており、その他のチームも上位常連ばかりだった。  そんなアルビン・ゲイに引き抜かれたことがうれしくてたまらなかった。これで“幸せ”への道のりがぐっと楽になったことは疑いようもなかった。 「あなたのチームに入れるのは光栄の至りですよ」 「光栄の至り、か。スラムの出にしてはムズカシイ言葉を知っているな、トキオ」  すでにファーストネームで呼びはじめたゲイの侮辱的な言葉にすこし苛ついたが、それは些細なことにすぎないのだと自分に言い聞かせてトキオは満面の笑みをゲイへ向けた。 「勉強していますから。這い上がるために」 「おいおいおいおい、泣かせてくれるじゃねえか。その嘘くさい笑顔も勉強したのか? ますます気に入ったぞ、トキオ。これから期待しているからな」 「ええ。きっと期待以上のはたらきをしてみせます」 「期待以下なら始末するだけだ」  とつぜん真顔で言ったゲイが、右手に力を込めた。 「っ……!」  思わず手をひっこめると、いつのまにか笑顔に戻っていたゲイがトキオの肩を強く叩いた。 「冗談だよ。ほんの冗談だ、トキオ」 「……すいません、ほんとうに驚いてしまいました」  冷や汗をかいているのを感じながらこたえると、 「こういうことも勉強していくんだな」  言って、ゲイは会場の中央で談笑する組織のボスのもとへと行ってしまった。  右手にのこるゲイの革手袋越しの生ぬるい感触と、あの言葉の冷たさをかみしめながら、トキオは「大丈夫、大丈夫だ。おれはミスなんかしない」と心中で呪文のように何度もつぶやいた。  思えば、レーサーになってから一年半でここまで這い上がってこれたのが奇跡のようだった。トントン拍子で生活も向上し、スラムを出たトキオは、父とエレナとともに六番の三等級住宅街に住めるまでになっていた。三等級住宅街は六番ではいちばん下の階層が居を連ねる場所だったが、それでもスラムからすると衣食住のすべてが当たり前のようにある生活は、まるで天国だった。 「ここよりもまだ上がある。そしておれにはそれをつかめるだけの運と実力があるんだ、エレナ。おれたちはもっともっと良い生活ができるんだよ」  パーティーから酔いどれて帰ってきたトキオは、夜更けだというのにわざわざ二階から降りてきたエレナをつよく抱きしめながら上機嫌で言った。その小さな肩幅が、一生をかけて守り抜くためのものだと思いながら。
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