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「そうね」しかし、トキオの思いとは裏腹に言って、エレナは控えめにトキオにキスをした。「だけどあまり無理をしないで。わたしはこれで充分なんだから」
その言いぐさが気に入らなかった。レーサーになってからというもの、トキオはエレナの顔に心からの笑みが浮かばなくなっているのを感じていた。だが、それでも夢に見ることさえ諦めてしまっていたこんな生活ができていることの一体どこにエレナの不満があるのか、皆目見当がつかなかった。
エレナは、日々の父の介護で疲れているのにもかかわらず、レースのある日にはかならず見送りに玄関まで出てきてくれた。その優しさのお陰でいつも頑張れてはいるが、エレナはお出かけのキスをしたあとには決まって「あまり無茶しないでね」と小さくため息をついた。それだけがこの夢のような生活のなかで唯一の不満だった。
そして、さっきの言葉……
「……いったい、なにが不満なんだ?」
酔いの勢いにまかせて言うと、
「不満なんて、ないわよ」
エレナの顔から偽りの笑みが消えた。
「じゃあ、なんで昔みたいに心から笑ってくれないんだ?」
「それは……心配だからかもしれない」
「ほら、やっぱり心配ごとがあるんじゃないか! こんなに生活が良くなったってのに、まだなにか足りないのかよ!」
怒鳴り、エレナの肩をつかんで引き離すと、
「心配なのは生活のことじゃなくてあなたのことよ、トキオ」
エレナが、トキオを見据えた。
その右目から一粒のなみだがこぼれ落ちる。
「……危険なのは百も承知だよ。だけど、おれたちスラムの人間はそうでもしないかぎり這い上がれないじゃないか」
「もちろん体のことも心配だけど――」涙を拭くエレナ。「――わたしが本当に心配なのは、あなたが変わってしまうことなの」
「バカなこと…… なにも変わってないじゃないか」
呆れ笑いをうかべて言うと、
「気がつかなかった? 心から笑わなくなったのは、あなたの方よ」
哀しい笑みを浮かべながらエレナが言った。
その言葉に胸をえぐられて肩から手を離すと、エレナはもういちど涙をぬぐってから階段を駆け上がっていった。
ひとり残されたトキオは、
「なにも変わってないさ……」
と、ふたたび力なく独りごちた。
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