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 それからエレナとのすれ違いの日々がつづき、一緒に生活をしていても心がかよいあう瞬間がまるでなかった。  あの日を境にして自分から逃げるようにこれまで以上に父につきっきりで世話をするエレナと、それがまるで当然だと言わんばかりに依存するかつての憧れの存在への不満と、その二人がもつ絆へ対する微熱のような嫉妬がもうすぐ限界へと近づきつつあるのをトキオは感じていた。  爆発寸前の心を紛らわすためにトキオは家へ帰ることをためらうようになり、レースがある日もない日も、そとで一日を過ごすようになっていた。そしてその面倒を一から十までみてくれたのが、新オーナーのアルビン・ゲイだった。いつしかトキオはゲイにたいして絶大の信頼を寄せるようになり、それがエレナから得られていない信頼をごまかしているものだと自覚しつつも、日々、堕ちていった。 「女の愛なんてものは昼間の影みたいなもんだ。バカどもは、それらが明るい日差しの中でずっと自分に付き添ってくれている存在のように勘違いしているが、あれはただの虚像なんだよ、トキオ。追いかけても逃げてゆくだけさ」  ゲイは笑い、 「まあ、お前のおかげで楽な生活ができているんだから、文句なんて言わせるんじゃねえ。あいつらは甘やかすとすぐにつけあがるからな。手綱を引くのは常にこちら側にしておかないと身も心も貪り食われるぞ」  と言って、また笑った。  ゲイの発言は言うまでもなく極論だとは思うし、なによりも日常的に吐かれるゲイのミソジニー女性蔑視的な発言にいつも眉をひそめてはいたが、それでも時折、自身の価値観がゲイの側に揺れるのをトキオは感じていた。  その頃にはどうやらゲイは同性愛者なのだろうとうすうすと感じはじめてはいたが、どうやらゲイの方からは一線を越える気はないらしく、それはもちろんトキオの側もそうだった。だがそういった諸々を越えた領域で友情をはぐくめているような気がしていた。  きっとギャンブルの駒として虚飾の世界で生き抜いてゆくためには、やはり孤独のままでは押し潰されてしまうのだろうと、トキオは思う。  いまの自分を信頼し、未来の自分へ期待する新オーナーのためだけに頑張ることだけが、いつしかトキオにとっての『自分の存在価値を証明すること』になっていた。 「お前はほんとうにここまでよくやってくれたよ、トキオ」  ゲイが言う。 「ありがとうございます」 「いつか、レイ・ハスナガの座をお前に与えてやってもいいとおれは思ってるんだよ、トキオ」 「ほ、本当ですか?」 「ああ、だがその前にいくつかやってほしいことがあるがな」 「なんでもやります」 「おいおいおいおい、即答か。やっぱり頼もしいな」 「這い上がるためにそうすると決めてますから」 「そうか――」  笑みを浮かべたゲイがトキオに依頼してきたのは、今季の最終レースにおける八百長試合だった。 「――それでだ、そのために最終レースまではお前に勝ち続けてもらう。そこまでの段取りは他の選手にはすでに伝えてある。お前には最終レースまでに“期待の新星”としての価値を上げられるまで上げてもらう。それまでのあいだレイ・ハスナガには負けつづけてもらうわけだが、決勝でやつを逆転優勝させる。つまり最終レースではお前には僅差で負けてもらい、奇跡の逆転劇を演出する。できるか?」 「……はい、やります」 「頼もしいことだな、トキオ。ほんとうならとっくにレイ・ハスナガはお払い箱なんだが、困ったことにうちのボスがたいそうお気に入りでな。だがやつにとってもこれが最後のシーズンになる。つまり、わかるよな? そのあとはってことだ」  その言葉を待ち続けていた。  たった一度の不正を行うことでさらに上にあがれるのなら、すこしくらいプライドがよごれてしまうのも仕方のないことだ。 「じゃあ、明日から頼むぞ、トキオ」 「はい。やり遂げてみせます」
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