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 三日後からはじまったレースにおいて、トキオはゲイに言われたとおりに着々と勝ち星をあげていった。とはいっても、ここまではなんの滞りもなくことは運んでいた。トキオは自分でも気がつかないうちに、右に出る者がいないほどに腕を上げていたのである。  レースが進むにつれ、ゲイの信頼はいや増しに増していき、トキオの自己承認欲求もまた自然と満たされていった。あとは、すっかり盛りを過ぎたレイ・ハスナガに有終の美を飾らせてやれば、来季からは新たなスターとして生活がより盤石なものとなる。  ゲイの信頼を確実にしたことを感じながら上機嫌で久々に家へ帰ると、なぜか家のあかりはすべて消え、それにくわえてエレナの出迎えもなかった。不審に思い、階上へ呼びかけてみたが、それでもエレナは姿を見せなかった。  なぜかいやな胸騒ぎをおぼえながらリビングへ入ると、テーブルの上に殴りつけるようにして『病院に行ってきます』と書かれた書き置きがあった。  決勝の当日。  これから人生のターニング・ポイント分水嶺ともなるレースがもうすぐ始まるというのに、トキオの心中はそれどころではなかった――  ――昨日、書き置きを読んですぐに駆けつけた病院の集中治療室で、父は面会謝絶の状態で治療をうけていた。そして、廊下のソファには両手に顔をうずめて力なくうなだれるエレナの姿があった。 「エレナ!」  おもわず声をかけると、 「来てくれたのね、トキオ」  言って、エレナは憔悴しきった眼差しをトキオに向けた。 「なにがあった?」 「……自殺しようとしたみたい」 「自殺……?」  言葉がうまく飲み込めなかった。 「なんで?」 「わからない……だけど、こっちに越してきてから、お父さんは、自分がわたしたちにとって重荷になってるんじゃないかってずっと気に病んでいたみたい」 「そんなこと、思ってるわけ――」 「じゃあ、なんで帰ってきてくれなくなっちゃったの?」  遮って声を荒げるエレナの顔が気色ばむ。  その表情に気圧されてなにも言えずにいると、エレナは立ち上がり、そっとトキオに歩み寄ってその胸に顔を埋めた。 「わたし、もう疲れちゃったみたい」  顔の見えないエレナの言葉が重かった。 「大丈夫だよ、こんどのレースが終わればもっと……」  その先が続かなかった。  自分が求め続けていたものが、エレナの求めていたものとはちがうものだと、ほんとうはとっくに気がついていたから。 「ねえ、もどろう。スラムへ」  胸に顔を埋めたままエレナが言う。 「バカ言うなよ。戻れるわけないだろ? もう逃げられないんだよ、どこにも。ここで這い上がっていくしかないんだ」 「じゃあ、九番へ行こう。あそこにはだいぶ前に移っていった親戚がいるの。頼っていけばきっとなんとかなるし、あそこならだれも追って――」 「お願いだ、エレナ。そんなこと言わないでくれよ。ここできっと幸せにするから」  思わず口を吐いて出たその言葉は、懺悔であり、懇願であった。 「ひとつだけ分かってるわ。あなたはここにいても幸せにはなれないし、あなたが幸せじゃなきゃ、わたしは幸せじゃないの。楽な生活と、幸せな人生はべつなのよ」胸に埋めていた顔をあげ、涙をぬぐうエレナ。「お願いだから分かってよ、トキオ」 「……お願いだから分かってくれよ、エレナ」  エレナの肩をつかんで引き離し、トキオは逃げるようにして病院をあとにした――
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