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 ――このレースをちゃんとやり遂げれば、きっとなにもかもがまたもとどおりになる。  そう言い聞かせるしかなかった。 「よお、おまえさんがトキオ・ユーノスか」  酒焼け声に振り向くと、レイ・ハスナガだった。かつて憧れていたころとはちがい、目の前に立つ現チャンピオンは無精髭をまばらに伸ばした、ただのうらぶれた中年にしか見えなかった。 「ちゃんと作戦はあたまにはいってるのか、若造?」  なぜか威圧的に言う、レイ・ハスナガの目は血走り、いつかの日の、鎖につながれた番犬の目が脳裡を過ぎる。 「……ええ、大丈夫です」 「ヘマするなよ、おれの最後の晴れ舞台なんだからな」  言って、なにかに脅えるようにして辺りを見回しながらレイ・ハスナガは自分のドックへと戻っていった。  ……余裕がないな。  いや、それはおれも同じか……  ふと胸に吹いた木枯らしのような虚無感をごまかすために何度か深呼吸をしていると、レイ・ハスナガにつづいてゲイがドックに現れ、いつもの不気味な笑みを浮かべながら近づいてきた。 「調子はどうだ、トキオ?」 「ええ、ばっちりです」 「そうか、メット越しでも顔色が悪いように見えるが」 「大丈夫です、ほんとうに」 「そうか、あまり気負いすぎるなよ。負けりゃいいだけだ。だが万が一にでも失敗しちまったら――」言葉を止め、トキオを見据えるゲイ。「――いや、なんでもない。信頼しているぞ、トキオ」  言ってトキオの肩をたたき、ゲイは観客席へもどっていった。  心がいまだ落ち着かないままついにレースがはじまり、第二コーナーまで四番手に着けていたトキオは一気にスピードをあげて一番手に躍り出た。後続をおおきく引き離して独走状態になったトキオはすこしスピードを落とし、そこへレイ・ハスナガが追いつていきて横並びになった。  ここまでは、予定どおりだ。  思いながら、ちらと隣のレイ・ハスナガへと視線を走らせてみたが、ヘルメット越しではその表情は分からなかった。  レイ・ハスナガは幸せなんだろうか? 最初からなのか、それとも途中からつくられた栄誉なのかは分からないが、レイ・ハスナガは偽りのチャンピオンだ。そしてその栄光も今日で終わる。あの血走った目で見てきた景色は素晴らしいものだったのだろうか?   そして、彼のあとにチャンピオンとしての栄光を約束されたおれは、それでほんとうに幸せになれるのだろうか?  レース中だというのに、頭がいやに澄みきっていた。  最終コーナーをまわり、直線コースに出た。  ゴールは目前。  あとは、負けるだけだ。  観客の歓声がおおきな波濤のように押し寄せるなか、トキオは不自然にみえないようゆっくりとアクセルを緩めた。  あとは、負けるだけだ。 「気がつかなかった? 笑わなくなったのは、あなたの方よ」  ――不意に、エレナの言葉が脳裡を過ぎった。  あとは、負けるだけだ。  負けるだけですべてが変わる。  あとは、負けるだけだ。  変わってしまう。  変えたいのか?   あとは、負けるだけだ。  変えるべきなんだ。  でも一体だれのために?   あとは、負けるだけだ。  でも――  ――気がつくと、トキオは歯を食いしばっていた。
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