(十)着ぐるみマン登場

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(十)着ぐるみマン登場

 早いもので美樹との別れから既に十年近くが経過し、三上も四十五歳。痩せこけて無愛想で生意気、例えば黄昏の西新宿辺りで痩せた口笛でエデンの東ばかり吹いている如何にも人間の屑の中年男として、逞しく生きていた。  時は三月、土曜日の午後。場所は新宿駅そばにある、夢の丘公園。この日、警備員のバイトはお休み。普段は部屋でごろごろしている三上だけれど、良い天気だし、偶には桜でも見っかと珍しく外出。新宿駅周辺をほっつき歩いた末、初めてこの公園に足を向けたという訳。  見ると、公園で暮らす人のブルーシートのテントハウスが、あちらこちらに並んでいる。 『すっ、げえ』  噂には聞いていたけれど、風の丘公園のそれとは比較にならないその数と迫力に、三上は思わず声を上擦らせた。  それから公園の入口付近でひとりハイライトを吹かしながら、例によって三上が痩せた口笛でエデンの東を吹き出そうとしたその矢先。公園の何処からか、別の口笛が聴こえて来た。しかも同じように痩せた口笛で、ただし旋律は、チャーリーチャップリンのテリーのテーマ。  そのメロディに乗って、公園では桜吹雪の舞踏会。春の陽に木々の葉がぴかぴかと煌めいて、桜の花びらが公園中に舞い踊る。更に桜散る地面に目を落とせば、菜の花、たんぽぽ、チューリップも色鮮やかに咲いている。  眩しそうに目を細め、足元の植物に見とれている三上の耳に、さっきの痩せた口笛が近付いて来る。とろーんと眠たそうな三上のハイライトの灰が、ぽろっと地面に落ちる。  一体誰だ。己へと接近して来るその影に、三上は神経を尖がらせた。け、俺の真似なんぞしやがって、生意気に口笛かよ。折角俺が先に吹こうってしたのによ、邪魔しやがってこんにゃろ。一体何処のどいつだ。顔を上げた三上の目に、先ず初めに飛び込んで来たのは、一本の傘。確かに相手は、傘を差していた。 『な、にっ』  三上は目を白黒させた。なぜなら天気は快晴。公園には、雨粒一滴もありゃしない。なのに傘。しかもそれは、どう見ても使い物にならない、破れかぶれのおんぼろ傘。一見女物、なぜなら花柄。  如何にも、怪しそうな野郎じゃねえか。三上は警戒した。すると相手もまた三上に気付いて、咄嗟に口笛を飲み込むと、三上の目の前でぴたっと足を止めた。  沈黙。そして目と目が合った。と言いたいところ、残念ながら相手の目は見えない。見えないと言うか、何処に本当の目があるのか見当が付かなかった。  何だ、こいつ。  相手の恰好に、三上は思わず吹き出した。一体何の真似だ、俺を笑かすなよ。三上がそう思ったのも無理はない。痩せた口笛、雨でもないのにおんぼろ傘を差し、今三上の目の前に突っ立っているそいつ。その恰好と来たら、着ぐるみ。  じゃーん、着ぐるみ人間登場。だからこっちに見えるそいつの目と言ったら、着ぐるみのおもちゃの目。くりくりとつぶらな造り物である。しかしそれでも目には違いない。突風が着ぐるみ人間の傘を大きく揺らして、驚いた着ぐるみ人間はさっさとおんぼろ傘を閉じる。着ぐるみ人間の造り物の目が、さっきからじっとこっちを見ているようでならない。てこた、この俺様にがんを垂れたって訳だな、こいつ。上等じゃねえか。かちんと来た三上は短くなったハイライトをさっさと地面に放って踏み消すと、負けじと睨み返した。 『てめ、なんか、用か』  しかし着ぐるみ人間からの返答はない。沈黙の中、ふたりはしばらくそのまま、じっと見詰め合った。ふたりの間を春風が吹き抜け、桜吹雪が舞い踊る。風は木々の葉を揺らし、木漏れ陽がきらきらとふたりを照らす。何処か懐かしい匂いのする春、土曜日の午後。着ぐるみ人間のやつ、さっきから固まったように微動だにしない。もしかして俺にびびりやがったか。それに中の様子は定かでないにしても、見た目は愛くるしい着ぐるみ。睨み付けていた三上は、とうとう堪え切れずに笑い出した。 『何だ、てめえのその恰好』  いつまでこんなやつ相手に、がん付け合っても仕方あるめ。さて、いい暇つぶしにもなったし、そろそろ引き上げっとすっか。着ぐるみ人間などしかとして、とっとと歩き出す三上。公園を出て、新宿駅へと続く人波に紛れた。ところがその背中を、なぜか着ぐるみ人間が追い掛けて来る。  へ。背中にその気配を感じた三上は、やべ、変なのと関わり合いになっちゃたまんねえと、歩を速めた。ところが着ぐるみ人間もやっぱりとろとろと、後を付いて来る。とは言っても着ぐるみ人間は着ぐるみ人間。幾ら走ったところで三上とはうさぎと亀、到底追い付ける筈がない。ふたりの距離は拡がるばかり。  気ばかりが焦るのか、とうとう足がもつれた着ぐるみ人間は、お間抜けに顔面からばたーん。人が引っ切り無しに行き交うアスファルトの路上に、倒れ込んでしまった。  振り向いて、恐る恐る着ぐるみ人間の様子を確かめる三上。自力では起き上がれないのか、いつまで経っても倒れたまんま。その横を何人もの人が、知らん振りして通り過ぎる。みっともねえったら、ありゃしねえ。その姿に憐れみを覚え、ふと魔が差す三上。久方ぶりに仏心、良い人が顔を出すのだった。あんなとこで倒れやがって。何て情けねえ不様な野郎だ、ったく。にしても流石に冷てえな、大都会ってやつは。誰ひとり助けようた、しねえじゃねか。ああまったく世話の焼ける野郎だけど、仕方ね。ちっとだけ手貸してやっか。  のろのろと路を引き返すと、三上は倒れたまんまの着ぐるみ人間の横へ。 『おう、どうした大丈夫か。何なら手、貸すぞ』  すると死んだ振りでもしていたような着ぐるみ人間、がばっと顔を上げたかと思うとじっと三上の顔を見詰めた。三上の親切がよっぽど嬉しかったのか、元から笑顔で製作された着ぐるみの顔が、それ以上ににこにこに見えるから何とも不思議。ところが何てことはない、着ぐるみ人間のやつ軽々と、さっさと自力で起き上がりやがった。  はあ、てめえ、何だよ。すっかり拍子抜けの三上。折角人が心配して来てやったのに。いやそれとも、あ、しまった。こいつ、俺を罠にはめやがったな。咄嗟に離れようとする三上の腕を、けれど素早く着ぐるみ人間の手がぎゅっと握り締めた。 『何すんだよ。離せ、この野郎』  威勢の良い割りにびびりの三上。しかも相手の握力の方が勝っていた。着ぐるみ人間は空いた方の手に何かを持つと、それを急いで三上に見せた。何だ、おい。それは、一冊のメモ帳だった。メモ帳。はあ、何だこいつ、もしかして……。  着ぐるみ人間が三上から手を離しても、三上はもう逃げはしなかった。そこで着ぐるみ人間は、メモ帳にボールペンでさらさらさらっと文字を綴った。 「待ってくれだな」  メモ帳には一言、そう記されていた。そういや、こいつ着ぐるみたあ言え、さっきから確かに、なんもしゃべってねえぞ。 『おめえ、もしかして』  ……口が利けねえのか。自分の唇を指差す三上に、着ぐるみ人間は答えるようにメモ帳に何かを書くと、再びそれを見せた。それを読む三上。 「おいらは夢の国の着ぐるみマンだな」  だな、だと。三上が驚いたのは、着ぐるみマンという名詞の方ではなく、だな、という語尾の方だった。そういや、さっきのも、待ってくれだな、だったな。だな、っておめえ、まさか……。  はっと息を呑み、目の前の自称着ぐるみマンとか言うやつをじっと見詰める三上。まさか、もしかしておめえ。三上の脳裏に、あの懐かしい男の顔が甦る。懐かしい男、それは、わ、た、な、べ。渡辺。着ぐるみマンの方も、じっと三上を見詰め返していた。  メモ帳の文字は着ぐるみの上から書かれているせいか、大きくて丸っこくて震えている。丸で字を習い立ての幼子の字のようで、だから渡辺の残した置き手紙の文字と同じかどうかなんて判別は難しかった。でも、どうしても、渡辺のような気がしてならない。  なのに同時に三上は、それを確かめるのが恐かった。もしそうなら、十年振りの再会になる。三上の脳裏に、あの渡辺の痩せた口笛、哀愁を帯びたエデンの東の旋律が怒涛の如く甦り響いて来た。けれどそんな三上の耳に今聴こえ来るのは、テリーのテーマ。いつのまに着ぐるみマンの野郎、口笛を吹いていやがった。  春風に吹かれ着ぐるみの毛が揺れて、気持ち良さげな着ぐるみマン。口笛のまんま、さらさら、さらっと更にメモ帳に書いた。 「立ち話もなんだから、公園にもどるだな」  け、何だこいつ。すっかり俺と立ち話でもしているつもりでいやがんの。けど確かに人通りも多くて、ここじゃ落ち着かねえなあ。それに少なくともこいつが、あの渡辺なのかどうか位は確かめねえと。仕方なさそうに三上が頷くと、ふたりは肩並べ夢の丘公園へと引き返した。  ちんたら歩きの着ぐるみマン。三上はさっさと公園に着いてハイライトを吹かしながら、着ぐるみマンの到着を待つ。ふたり揃ったら、まだ午後の陽が残る公園のベンチに並んで腰を下ろし、しばし沈黙の時を過ごした。木漏れ陽がふたりをやさしく照らし、風は頬を撫で、桜吹雪が舞い踊る。  少しずつ陽は傾いて、公園を行き交う人々の足取りものどか。街のざわめきも遠い駅前から届くノイズも、ふたりの沈黙を乱すには至らない。黙っていてもほんわかと心が通い合う気がして、妙にやさしい気持ちになってしまう三上。と言って、いつまでもこうしている訳にもいかない。三上は思い切って、口を開いた。 『あんた、もしかして、わ……』  けれど三上の声を制し、着ぐるみマンはメモ帳とボールペンを三上の前に差し出した。  は、何だ。もしかして俺に書けってか。  仕方なしメモ帳とボールペンを受け取ると、ペンを握り、三上はしばし白いメモ用紙と睨めっこ。しかし言葉は何にも浮かばない。  わざわざ文字にする程のことが、この世の中とか人生とかに、一体有るものだろうか。文字にした途端、すべて色褪せ、何もかも白々しいお芝居に堕しちまうんだよ。そんな気がして三上は、何にも書けない。なのにそんな自分の横で、丸でガキか何かのようににこにこしながら、こんな俺なんかの文字を言葉を今か今かとじっと楽しみに着ぐるみマンの野郎は待っていやがるのだった。  何ちゅう、もどかしさだろ。三上は苛々しながら、やっとこさペンを走らせた。なんか、すっげ、ぎこちない俺……。 「あんた、もしかして、渡辺さん」  ほらな。やっぱ、白々しくなっちまったじゃねえか。それに我ながら細く尖がってて、如何にも神経質そうな文字。照れ臭そうに苦笑い浮かべる三上のメモを、待ち切れず横から覗き込んだ着ぐるみマン。  けれど答えはノー。着ぐるみマンは間髪容れずに、かぶりを振った。その表情も笑顔なのに、何処かしら悲しげに見えるから不思議でならない。丸で特殊な細工が施されていて、中の人間の喜怒哀楽に合わせて表情が変化する着ぐるみってふう。そんな気の利いた着ぐるみなんぞ、あるかい。そう思いつつも、つい着ぐるみマンの顔をじっと見詰めずにはいられない三上だった。  渡辺じゃねえ。って本当か。嘘吐きやがれ、こん畜生。じゃねえ、この着ぐるみマン野郎。  メモ帳とボールペンを受け取り、早速ペンを走らせる着ぐるみマン。 「それは着ぐるみ違いだな。おいらは着ぐるみマン」  はあ、着ぐるみ違い。ああ、人違いのことかいよ。まったく面倒くせえ野郎、すっかり着ぐるみワールドに浸っていやがんの。でもほんとかよ、渡辺じゃねえって……。でもわざわざこいつが嘘吐く必要もないだろうし、やっぱ、俺の思い過ごしってやつか。他人のような気がしねんだけどな、どうしても。でもま、仕方ねえか。  そんだったらもう、用は済んじまった訳だから……。とっとと引き上げれば良さそうなものを、どうにも立ち去り難し三上。着ぐるみマンが差し出すメモ帳に、今度はすらすらと言葉が浮かぶ。ただしもう、渡辺の件は触れないことにして。 「じゃ夢の国って何だ。どこにあんの」  すると嬉しそうに頷きながら、着ぐるみマンはメモ帳に答えを返す。 「M78星雲にあるだな」  ぷっ。吹き出す三上。おめえはウルトラマンかよ。しかも雲の字が書き辛いとみえ、他の文字の二倍の大きさなのが笑わせる。  続けて三上。 「そんな遠くから何しに来たんだよ」  すると着ぐるみマンは腕組みして、難しそうな顔。おいおい、ほんとに悩んでんのか、お芝居じゃねえだろうな。冷やかしたくなるのを抑えながら、じっと着ぐるみマンの答えを待つ。名答が浮かんだのか、着ぐるみマンのペンは饒舌になる。 「おいらは今、夢の国の公園のベンチで居眠りしているだな」  は、行き成り何のこった。 「昼寝の途中ってわけ。おいらは昼寝しながら夢を見ているんだな」  まあすます意味不明だっちゅうの。着ぐるみの旦那。 「どんな夢だと思うだな」  はあ。俺に聞かれたって、分っかる訳ねえだろ。三上はかぶりを振った。そんなこた、知らねえよ、あほくさ。そこで、自ら答えを記す着ぐるみマン。 「おいらが見ている夢は、地球って星の上のひとりの男の人生だな」  は、だからさっきから何言ってんだよ。呆れたように着ぐるみマンの顔を見詰める三上。着ぐるみマンはその顔をまた悲しげに曇らせながら、残りの文字をメモ帳に記した。 「つまり、人生は夢」  えっ。三上の唇と、メモ帳の文字に沈黙が落ちる。黙ってメモ帳の文字を読み返す三上。人生は夢、人生は夢、か。だな、は、付けねえのかよ、今回は。人生は夢だな、ってよ。ま、いいか。ひゅるひゅるとひんやりした風が、心の中を吹き抜けてゆく気がした。口笛、痩せた口笛が、無性に吹きたいと三上は思った。曲は勿論エデンの東。けれど今回もまた先を越されちまったらしい。聴こえて来たのは、着ぐるみマンのテリーのテーマ。 「じゃ、俺帰っから」  メモ帳に乱暴に殴り書きすると、さっさとベンチから立ち上がる三上。 「また来るだな」  ベンチに坐ったまま、にこにこ手を振る着ぐるみマン。振り返り、いや、もう来るか分かんねえよ。そう大声で叫ぼうとして止め、かと言ってかぶりを振ろうとしたけれどそれも出来ず、そのまんま歩き去る三上だった。その背中に、幾枚もの桜の花びらが留まって揺れていた。  片や、夢の丘公園のベンチにひとり残された着ぐるみマンは、もう陽も暮れたと言うのにベンチから一向に動く気配がない。メモ帳に残された三上の筆跡を、それはにこにこと嬉しそうに、いつ飽きるともなく眺めていた。頭に肩に膝に桜の花が舞い落ちて、花びらに埋もれそうな着ぐるみマンのその唇には、やっぱり痩せた口笛で、テリーのテーマが似合っていた。
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