4人が本棚に入れています
本棚に追加
(十二)西日の部屋
月が替わり四月。時は土曜日の午後、場所は三上の住むおんぼろアパート、福寿荘101号室のドアの前。
住人の三上は夜勤明けで、もうへとへと。既に夕暮れ間近だと言うのに、まだ布団の中で爆睡中。
そこへ、とんとん、とんとん。ドアを叩く音。ドアの前には不気味な影がひとつ。春の使者か、それとも貧乏神か。そいつの唇が痩せた口笛で奏でるは、テリーのテーマ。
とんとん、とんとん。さっきから叩いてはいるものの、何しろ着ぐるみの手ゆえ、もわっとしか響かない。かと言って貧乏アパートの宿命、インターホンも呼び鈴もないと来れば、ひたすら叩き続けるしかない。
とんとん、とんとん。何だ、さっきからうるせえな、何処のどいつだ。やっとお目覚めの三上は、無理矢理起こされ機嫌が悪い。大方新聞の押し売りかなんかだろ。居留守しちまえと布団を被ろうとして、けれど幽かな物音に気付いてはっとする。ドアの向こう側からは、確かに聴き覚えのあるメロディ。しかも、痩せた口笛。
はあっ、もしかしてあいつ。渡辺、いや着ぐるみマン。やっべ、幾ら何でもこんな時にタイミング悪過ぎだろ。文句を垂れながらも、布団からがばっと飛び起きると、三上は玄関へまっしぐら。ドア越しに『着ぐるみマンか』と叫ぼうとしたけれど、はっとして口をつぐんだ。そうだった。メモ帳じゃなきゃ、駄目なんだ、あいつ。貧乏アパートのドアゆえ、ドアスコープも付いていない。けれどメロディから先ず間違いなし。三上は思い切って、ドアを開けた。
そこには予想通り着ぐるみマンが、ぼけっと間抜け面で突っ立っていた。その両手には見覚えのあるマジソンバッグが。と言いたいところ、流石に年月の経過には勝てなかったのか、別のバッグを下げていた。しかもなぜか、ルイヴィトン。へ、何でだ。ま、いっか。三上は苦笑い。着ぐるみマンは早速、メモ帳を取り出した。
「もしかしてねてただな」
でかい面して、心配顔。だから三上はかぶりを振って、メモ帳に大きな文字で返事をした。
「よく来たな」
それを覗き見て、ほっとした顔の着ぐるみマン。
福寿荘の前は道路で、近所の通行人が頻繁に行き交う。着ぐるみマンに気付いた通行人が、驚いたり好奇の目を向けながら通り過ぎる。やっべえ。慌てた三上はメモ帳に書く。
「まあ上がれよ」
こうして三上はとろとろと動きの鈍い着ぐるみマンをとっとと室の中に招き入れ、ドアを閉めた。
着ぐるみの足はブーツになっているから、着脱可能。もたもたと時間を掛け何とかブーツを脱ぐと、着ぐるみマンは室に上がった。どうせぷーんと着ぐるみマンの体臭やら足の臭いやらが、室一面に立ち込めるだろうと思いきや、意外にも無臭。おやおや、ちゃんとどっかで体洗ってやんのか。感心、感心。狭い玄関には、三上の靴と着ぐるみマンのでかいブーツが仲良く並んでいる。
部屋は2Kで、古いけどバストイレ付き。三上は普段自分が使っていない方の部屋に、着ぐるみマンを案内した。そこは現在のところ荷物置き場と化しているから、片付ければ人ひとり位何とか暮らせないこともない。それに着ぐるみマンの荷物はあってないようなもの。
着ぐるみマンの様子を見ると、直立不動で柄にもなく緊張しているふう。三上はリラックスさせようと、にたッと笑い掛けながら、メモ帳に記す。
「やっぱおん出されたか、公園」
すると着ぐるみマンもおどけた表情を作って、はい、お手上げのポーズ。思わず三上が吹き出す。
「行くとこねえなら、しばらくこの部屋使えよ」
さらりと三上がメモ帳に書けば、今度は着ぐるみマンのやつ、大きな目をうるうるさせ感激の表情。まったく喜怒哀楽豊か、良く出来た着ぐるみだねえと、改めて感心する三上。でも着ぐるみマンはこの期に及んで、尚もまだ下手な言い訳。
「今日は遊びにきただけだな」
「いいから遠りょすんなよ」
有無を言わせぬ三上のやさしさに、仕方なさそうに着ぐるみマンは苦笑い。
「すぐかたづけっから、あっちの部屋で待っててくれ」
「手伝うだな」
「邪魔だってば」
メモ帳の三上の文字が怒りに震えていたから、渋々頷く着ぐるみマン。
「TVつけていいぞ」
しかし今度は着ぐるみマン、かぶりを振ってノートに返事。
「テレビは見ないだな」
あん、そうかよ。ちょっと三上は不満げ。
「ラジオはきくだな」
ラジオかよ。ま、いっか。にこっと笑って三上が続ける。
「じゃFMでもきいてろや」
分かったと頷いて、ようやく着ぐるみマンは隣りの部屋に姿を消した。
三上は早速、荷物の片付け。大した荷物はなく、みんな不用品といえば不用品。ただ捨てる決心がつかなかったり、面倒臭かったりで残している物ばかりである。だから部屋の隅にまとめて積み上げれば、はいお仕舞い。
これで無事ひとり分のスペース確保と相成って、おーい、出来たぞ。着ぐるみマンを呼ぼうとして、またまたはっとして止めた。あら、またやっちまった。ほんと、あほな俺。はいはい、メモ帳、メモ帳ってか。三上は自嘲の苦笑い。そのまま黙って着ぐるみマンの待つ、自分がいつも過ごしている部屋へと戻った。
ところがそこで三上が見たものは、着ぐるみマンの涙……。着ぐるみの大きな瞳から、大粒の涙が零れ落ちているではないか。ほほう、やっぱ良く出来てんなあ、この着ぐるみ。などとしばし感心していたけれど、はたと我に返る三上。今はそんな場合じゃねえだろ。一体何で泣いてんだ、こいつ。
どうしたんだよ、と声を掛けようとして、またもや三上ははっとして唇を噛む。あーあ、またやっちまった。本当、おばかな俺。ったくめんどくせえぜ、いちいちよう。おう、何処だメモ帳は。けれど相手に聞くまでもなく、三上は気付いた。着ぐるみマンの、その涙の訳を。
三上が部屋に戻って来たことさえ気付かず、丸で魂を抜かれた抜け殻のようにぼけっと突っ立ち、泣きながら着ぐるみマンがじっと見詰めているその視線の先。
そこには、美樹の遺影。
そうか、そうだったなあ。着ぐるみマンじゃねえ渡辺いやどっちでもいいけど、まだ知らなかったんだよな、美樹が死んだってこと。でも仕方ねえ。こればっかりは、隠しようがねえから。だって大事な大事な、美樹の仏壇と遺影なんだもの。大粒の涙に濡れる哀れな子羊にも似た着ぐるみマンへと、セピア色の写真の中から今も変わらず在りし日のやさしい眼差しで、美樹が微笑み掛けているじゃねえか、おい。
やっと三上の気配に気付いて、着ぐるみマンが振り返る。ふたりの目と目が合って、黙って頷く三上。ま、そう言うこった……。
ふうハイライト吸いてえ、或いはエデンの東の口笛が吹きたい。そんなことを願う三上。対して着ぐるみマンは、メモ帳に一生懸命ペンを走らせる。三上が覗き込むと、そこには「観音様」の三文字。よっぽど書くのに苦労したとみえ、「観」の文字が一際ばかでかくて、笑いたいのに泣ける三上。
窓に西日が差して、部屋の中はしーんとしていた。大都会の片隅だと言うのに、聴こえるのは幽かな遠いざわめきだけ。アパートの住人の話し声か、それとも近所、通行人の足音や通り過ぎる車の音。それに遠く遥かな電車の音さえ、聴こえ来る気がしてならない。だから着ぐるみマンのペンの音さえ分かった。
「あんちゃん、ちっとも知らなかっただな」
いいんだよ、そんなこた、もう。黙ってかぶりを振る三上。それからペンを取り、メモ帳に記した。
「むこうの部屋、準備できたぞ」
三上の言葉に、着ぐるみマンは涙を拭いながら頷いた。そしてとぼとぼ、とぼとぼと隣りの部屋へ向かった。
この時着ぐるみマンは、密かに決意する。アパートなんて本当なら窮屈でならないけれど、しばらくあんちゃんと一緒に暮らそう。まさかあの観音様が死んだなんて、夢にも思わなかったから……。少しでも三上を慰めて上げたい。そんな気持ちでいっぱいの着ぐるみマンだった。
こうしてふたりの、野郎同士の同居生活は始まった。
最初のコメントを投稿しよう!