(十四)さつき

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(十四)さつき

 着ぐるみマンが福寿荘に転がり込んで、早ひと月。  月は替わり、五月。相手が着ぐるみマンとは言えど誰かとの共同生活は、何だかんだでもう何十年もずっとひとり暮らしを続けて来た三上に、新鮮な刺激を与えた。日々ひとりじゃないことの、隣りに誰かがいると言うことの不思議な喜びを、三上は味わい噛み締めていた。野郎ふたりだとつい鬱陶しくて衝突したりもするものだけど、着ぐるみマンは相変わらず慎ましく暮らし、時にその存在さえ忘れる程。三上に気を遣ってくれているのが痛い程分かるから、喧嘩も起きない。  会話だって、相変わらずメモ帳。ってことはもし口喧嘩をしても、やっぱりメモ帳の上でのこと。だからばからしくなって、さっさと止めてしまう。メモ帳を見返せば、いつも「おはようだな」と「おはよう」、「ただいまだな」と「おかえり」、「おやすみなさいだな」と「おやすみ」なんて調子。一々書かなきゃなんないから面倒臭いけど、時には心に沁みることもある。バイトで嫌なことがあった日などは愚痴ったり不平不満を大声で爆発させたいところだけれど、部屋に帰ればそれもやっぱりメモ帳。いざ文字で不平など綴ろうとしても、何だか白けて、怒りも冷めてしまう。おまけに愛嬌のある着ぐるみマンの容姿。何も言葉を交わさなくても、その姿を見るだけで和まされてしまう三上だった。  夜中に悪い夢見て目が覚めて、しーんとした部屋にひとりぼっちなんて時、隣りからすやすや、すやすや着ぐるみマンの寝息が聴こえて来ると、つい涙が零れる程やすらぎを覚えてしまう。時折り夜明け前に目が覚めた時は、決まって以前着ぐるみマンがメモ帳で語ってくれた夜明け前の海のことを思い出し、つい耳を澄ましてみる三上だった。流石に海の音など聴こえはしないけれど、都会のノイズに混じって何処からか誰かがすすり泣く声など聴こえて来るような気がしてならなかった。  休みの日には、一緒に出掛けるようにもなった。例えば早朝の散歩。ふたりして、まだ人影の少ない大都会新宿の街を歩く。お陰で着ぐるみマンの趣味も判明。それはダンス。まだ人通りの少ないJR新宿駅の地下道で、痩せた口笛のテリーのテーマに合わせ、颯爽と踊るのが着ぐるみマンの最大のストレス解消法。何度も一緒に踊ろうと誘われたけれど、流石に照れ臭くって三上は断る。それでもハイライト吹かしながら近くで眺めていると、つい爆笑で咳き込んでしまう三上だった。  ふたりは夜の散歩も大好き。ふたり並んで大都会東京は新宿の星空を見上げながら黙って歩く。福寿荘から、やがて空の星がネオンに掻き消される新宿の繁華街まで。時を忘れゆっくりゆっくりと、騒々しい欲望の街を、都会の夜を、夢見るように渡ってゆく変なふたり組である。  勿論、夢の丘公園に出掛けるのもお約束。流石に桜の花は散って今はもう葉桜。代わってさつきが色付き、公園を訪れる人々の目を楽しませている。木漏れ陽が宝石の滴のように煌くベンチに腰掛け、三上がハイライトで一服の間、着ぐるみマンは草の上にしゃがんだり、大の字で寝転がったり。遠くから眺めれば、どう見ても変なやつとしか思えない。そんな着ぐるみマンに、時より通り掛かりの子どもたちが寄って来る。着ぐるみマンはにこにこ顔で応える。でも焦った親が子どもたちを叱り付け、さっさと遠ざかる。 『駄目よ、変な人に近付いちゃ』  けれど着ぐるみマンは一向に気にしない、気にしない。  空は青く澄み渡り、ぽかぽか陽気にふわあっと大欠伸で眠くなる。三上もベンチでついうとうと。ふと見ると着ぐるみマンのやつ、さっきからじっと土に耳を当てていやがる。何してやんだ、あいつ。ばっかじゃねえの、と呆れ顔の三上。ベンチに戻って来た着ぐるみマンに、早速メモ帳で問い詰める。 「何してたんだよ」  すると着ぐるみマンは涼しい顔で答える。 「春の音をきいていただな」  はあ、春の音だと。あほか、このタコ。吹き出しながら、更に問う三上。 「じゃ春の音ってなんだよ」  迷うことなく着ぐるみマンは、すらすら、すらっとメモ帳に返事を綴る。 「大地の音、土の中の花の種やせみの幼虫たちの寝息、鼓動だな」  時には何処へも行かず、福寿荘の部屋でゆったりと過ごすこともあるふたり。土曜日の午後、ラジオやラジオから流れて来る音楽をふたり黙って聴いている。昔の曲、最近の曲、知ってる曲、知らない曲、歌謡曲、ポップス、ロック、ジャズ、クラシック、ムード音楽、スクリーンミュージック。ふたりとも知っている曲や、知らなくても気に入った曲の時は目と目を合わせ、頷き合ったり微笑んだり渋い顔したり。ただそれだけなのに、不思議と心が通い合う。今目の前を駆け抜けてゆく一瞬一瞬が、丸で木漏れ陽の煌きのようにいとおしく思えてならない。こんな時にはメモ帳すら不要。  唯一度だけ、ふたりで一緒にTVを見たこともある。それは土曜日の夜の土曜名画劇場、名画はチャップリンの『街の灯』。じっと黙ってTV画面を見詰める着ぐるみマンと、その横顔を黙って見詰める三上。感動のラストシーンでは沈黙の中、着ぐるみマンのすすり泣く声が漏れていた。  それから一緒に買い物にも出掛ける。着ぐるみマンのこと、食品は不要だけれど、消耗品は人並みに必要。ティシュ、トイレットペーパー、石鹸、髭剃り、歯ブラシ、歯磨っ粉、タオル……。そこで近くのスーパー『コスモス』へ。  そこは三上が福寿荘に引っ越して来た当初から、ずっと利用して来た馴染みのお店。だけど客としての三上の評判は、すこぶる悪い。何しろ無愛想だし、荒っぽいし、文句ばっかり言うし。例えばレジの台に荒々しくドサッとカゴを置いたり、さっさとしろとがんを垂れたり、投げつけるように代金を払ったり。 『ポイントカードはお持ちですか』 『ねーよ、そんなもん』 『レジ袋はご入り用ですか』 『いるに決まってんだろ。どうやって持って帰んだよ、おばちゃん』  支払いの遅い前の客には、文句たらたら。 『もたもたすんなよ』  そう言って、びびらせる。しかし恐そうな客の前では大人しい。ってな訳で、コスモスのレジ係のお姉さん、おばさん連中は、みんな三上のことが大嫌い。  そんなスーパーコスモスのレジ係の中にあって、なぜか三上に好意を抱く岩渕百合三十五歳がいた。彼女は不倫が原因で虎ノ門の一流企業を退職した後、就職難の中やっと今の仕事を見付け、それからもう二年。初めて三上と会った日から、ずっと密かに思いを寄せてはいたけれど、いいきっかけに恵まれず思いを伝えることもないまま、今日までずるずると来てしまった。なぜ百合が三上に惹かれたかと言えば、それは百合が初めてレジに立った日のことである。  その日百合は緊張の為声が上ずり、指先も震える有様。ミスを連発し、とろとろとしか客をさばけず、百合のレジはあっという間に長蛇の列。ところがその時コスモスは超満員。フォローしたくても、誰一人応援に来れる状況ではなかった。そこへカゴを抱えて三上参上。いらいらした顔で百合の列に並び、しかめっ面でやっと迎えた自分の順番。これがふたりの初対面。  緊張が続く百合はここでもミス。手を滑らせて、三上大好物のプッチンプリンを落としてしまったのである。無残プッチンプリンはカップの中で上下混ぜこぜ状態、最早商品とは呼べない代物と化していた。思いっ切り三上の罵声が飛ぶ。 『何やってんだ、このたこ』 『申し訳ありません。ただ今直ぐに、新しい商品とお取替えさせて頂きます』  涙声の百合。見ればその指が震えている。しかも新顔じゃねえか、ったく。こうなるとつい魔が差して、良い人が顔を出す三上であった。さっさと持って来いと怒鳴ろうとした唇をぎゅっと噛み締め、ぶっきら棒に答えた。 『いいんだよ、これで。こっちの方がうめえから』  えっ。にこっと微笑む三上の顔を、百合はじっと見詰め返した。 『いいから、早くしろってば』  あらまあ。口は悪いけど、やさしさが見え隠れする三上の言葉に、つい目を潤ませながらお辞儀する百合。 『はい、有難うございます』  ところが列の後方から、客の誰かが怒鳴る。 『こら、もたもたすんな。さっさとやれ』  すると百合の代わりに、三上が答える。 『うっせえよ、そこのじじい。お姉さんだって慣れないのを一生懸命、頑張ってんだから。大人しく待ってろや』  三上の迫力に黙り込む客。あら、やっぱりこの人、良い人なんだわ、間違いない。三上のやさしさに励まされ、すっかり百合は緊張が解ける。みんなは、あの人のことを悪く言う。確かに無愛想だし口も悪い。けど本当は良い人なのよ、絶対に。ただちょっと、不器用なだけ……。  こうして百合の中に三上への恋心が芽生え、自分だけでも三上を理解して上げたいと願うようになった。  では三上の方は、そんな百合をどう思っていたか。実は百合の気持ちに、まったく気付いていない訳でもなかった。表向きは人間の屑を演じる不良中年おやじでも、心の中は相変わらず繊細で良い人。しかもコスモスには毎晩のように夕飯を買いに寄るから、百合とはしょっちゅう顔を合わせる。初めは気付かなかったものの、そこは男女の仲。三上も段々と意識し始める。もしかしてあの女、この俺に。いやまさか、そんな筈はない。こんな人間の屑に……と、三上の心は激しく揺れ動く。  今の俺には、女と付き合う余裕などこれっぽちもない。それに第一俺には、美樹がいるじゃねえか。俺の心は今も、美樹への思いでいっぱいなんだよ……。  じゃ面倒だから顔を合わせないように、よそのスーパーにでも行くか。でもコスモスの弁当は安くて美味いから、捨て難いんだよな。じゃ今度からあの女のレジは極力避けて、並ばないようにしちまおうぜ。  ところがこれが逆効果。冷たくされればされる程、燃え上がる女の恋心。以前にも増して百合の熱い眼差しが、三上へと注がれることに。  んじゃ今度はあの女のレジに並んで、わざと意地悪して嫌われちまうか。ところがどれ程無愛想にしても、荒々しく文句を言っても、百合は天使のようにいつもにこにこ微笑むばかり。あーあ、駄目だこりゃ。お釣りのやり取りで思わず指と指とが触れ合う時など、百合の頬っぺたはまっかっか。うーっ、何勘違いしてやんだこの女、ったく。内心地団駄踏む三上。  そんなお騒がせ人間の屑三上が、或る日初めて着ぐるみマンを連れてのこのことやって来た。三上はとっとと自分の買い物を済ませると、店外でハイライトを吸いながら着ぐるみマンを待った。着ぐるみマンの方はちんたらと物珍しそうに店内を一周し、欲しい物をカゴに入れた後ようやくレジへ。  そこは百合のレジだった。初対面の百合と着ぐるみマン。着ぐるみマンは例によってメモ帳とボールペンを取り出し、さらっと書いて百合に差し出した。 「いくらだな」  着ぐるみの恰好に吃驚、メモ帳に二度吃驚。けれど冷静に百合は、着ぐるみマンのメモに記した。 「値段なら、ここに出ますよ」  そしてレジの値段が表示される部分を、指差した。ああ、分かっただな。頷く着ぐるみマン。その時コスモスは割りと空いていたのと、着ぐるみマンのいる百合のレジを客がみんな敬遠した為、愚図愚図している着ぐるみマンに文句を言う者はいなかった。  ところがいつまで待っても出て来ない着ぐるみマンに、痺れを切らした三上。店内に舞い戻るや、苛々した顔で着ぐるみマンに早くしろよと催促。答えて頷く着ぐるみマン。その様子にふたりが知り合いなのだと、気付く百合。  ところで着ぐるみマンがどうやって代金を払うかと言えば、先ず着ぐるみの右手の手袋を外し素手になる。次にお腹のポケットのファスナーを開ければ、そこはそのまま大きながま口。後はそこからお金を取り出して払う。釣り銭があれば受け取ってがま口に仕舞い、ファスナーを閉じ右手袋をすれば、はい元通り。 「おいらは着ぐるみマン。あんたは良い人だな、なんて名だな」  支払いを済ませた後、着ぐるみマンはメモ帳に書いて百合に見せた。  そこで百合は正直に自分の名を書き、メモ帳を返した。 「岩渕百合」 「むずかしくてかたそうな名だな」  着ぐるみマンが笑ったから、百合もつい笑い返した。余程波長が合うのか、百合と着ぐるみマンは直ぐに意気投合し仲良しになった。着ぐるみマンは百合に手を振り、急いで三上の許へ。  こうして三上と着ぐるみマンは無事買い物を済ませ、福寿荘への帰路に就く。着ぐるみマンのメモ帳に「岩渕百合」の文字を見付けた三上は、今までレジ係の名札で岩渕と言う姓しか知らなかった百合のファーストネームを、この時初めて知ったのだった。  五月の風が気持ち良さそうに着ぐるみマンの頬を撫でて吹き過ぎ、三上は相変わらず痩せた口笛でエデンの東を吹いていた。
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