(二)エデンの東

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(二)エデンの東

 この三上という男、渡辺が口にする通り確かにばかが付く程の良い人。仕事は平凡なサラリーマン、と言っても実はヘッドハンティングならぬハートハンティングされた身。その良い人振りが某ITベンチャー企業の社長にすっかり気に入られ、そこの人事部に招かれ働いている。南は九州熊本で生まれ、ぽかぽか陽気のようなおっとり型のお坊ちゃま育ち。次男の彼は両親の面倒を見る心配もいらず、大学卒業と同時に上京。都内のマンションを転々としながらひとり暮らし。と言っても窮屈なワンルームは嫌いで、いつも2Kか1LDKの部屋を借り、伸び伸びとした暮らしを続けていた。未だ独身、それでも周囲や田舎の心配をよそに本人は至って元気。いつもにこにこ陽気に振る舞い、常に前向き。趣味はボランティアというポジティブの塊のような人間。加えて博愛主義者でもある。  会社でもご近所でもやさしく親切世話好きとあって、敵を作らずみんな味方、仲間。困った人を見ると、見て見ぬ振りが出来ずついつい声を掛け手助けせずにはいられない。だから善意が行き過ぎて失敗することもしばしばだけど、周りは至って好意的。 『ああ三上か、あいつなら仕方がない』 『あらまあ三上さんたら、おっちょこちょいなんだから』  微笑まれこそすれ、煙たがられたり嫌がられたりすることなど滅多にない。まったく憎めないおちゃめな男として存在している。電車で席を譲ったり町内のゴミ清掃を手伝ったり、お年寄りの手を引いて信号を渡ったり道案内したり、街頭の赤い羽根募金に至っては赤い鳥になって何処かへ飛んでいきはしないかと言う位多額の寄付を惜しまず、その他交通遺児、発展途上国の子どもの教育費の面倒を見て、会ったこともない何人もの子どもたちの経済面での里親にもなっている。それでも一応は将来のまだ見ぬ恋人を夢見、結婚生活だってちゃんと考えていて、堅実に貯金することも忘れない。  また正義感も強く、身の危険を顧みず行動してしまうこともしばしば。電車内の痴漢の現行犯逮捕に協力したり、近所の娘さんのストーカー野郎に注意して逆切れされ危うく刺されそうになったりなんてことも経験している。かといって堅苦しいだけの男と言う訳でもない。煙草はやらないけれど飲み会は好きで付き合いも良く、大いに飲んで大いに騒ぐ。休日である土日ともなると彼を慕ってマンションに遊びに来る近所の老人たちも少なからずいて、世間話をしたり悩み事の相談を受けたりと三上の部屋はいつも賑やか。  そんな典型的な良い人の三上が現在住むマンションは、JR鶯谷駅近くの東京都台東区風の丘町に建ち、直ぐ目の前に風の丘公園が広がっている。公園には三上が引っ越して来る以前から既に何人もの路上生活者が青いテントを張って生活しており、三上は引っ越し当初から彼らに対し可能な限りの支援を細々とひとりで続けていた。だからそんな良い人の三上と、自称人間の屑の渡辺とがこの公園で出会うことは必然だったと言えなくもない。  ちょうど一年前の今頃即ち春、何処から流れて来たのか渡辺は、風の丘公園にふらっとその姿を現した。それは或る晴れた土曜日の午後、渡辺は青白く痩せこけた顔をして、痩せた口笛吹いていた。旋律は何ともか細く物悲しくて、哀愁をいっぱいに帯びたエデンの東。渡辺は両手に各々ぱんぱんに膨れた大きなマジソンバッグを下げており、髪も髭も伸び放題。  口笛を聴き付けハウスから顔を出した公園の住人たちは、また妙なやつが現れやがったと警戒を忘れなかった。ところが公園に辿り着いた渡辺は、公園の土を一歩踏んだ途端積み木が崩壊するようにその場にばたっと倒れ込んでしまった。痩せ細った体、生気のない顔。間違いない、あの野郎栄養失調だな。他人事に思えない公園の住人たちが集まって、渡辺の周りを取り囲む。  この騒ぎに気付いて飛んで来たのが誰あろう我らが三上青年、と言いたいところだけど微妙。何しろ近頃ふっくらとお腹も出て来て、既に中年の域に急接近中。 『どうしたんですか』  渡辺を囲む輪に混じって問う三上。 『ああ流石は三上さん、いいところに来てくれた。やっこさん、公園に行き成り入って来やがったかと思うと、この有様さ』  答えたのは、公園でも古株の斉藤。 『見掛けない方ですね。斉藤さん、ご存知ですか』 『いいや知らね、まったくの新顔だ。上野界隈でも、見掛けねえ面だな』  斉藤はかぶりを振った。  渡辺の様子を見ると、気絶してはいるけれど息はあるらしい。 『どうしましょう』 『この様子じゃ、もう何日も食ってねえな』  みんなが固唾を呑んで見守る中、渡辺の隣りに寄ってしゃがみ込む三上。 『もしもし。大丈夫ですか、大丈夫ですか』  渡辺の肩をぽんぽんと叩く。 『もう死んでんじゃね、三上の兄さん』  いつも暗い表情で神経質そうに笑う岡が、無責任に言い放つ。くすっと笑いながら三上。 『嫌だな、まだ死んでなんかいませんよ、岡さん』  ぴくりと少しだけ渡辺が反応した気がしたけれど、それには気付かず立ち上がる三上。 『じゃぼく、救急車呼んで来ますから、みなさん見ててもらっていいですか』  三上の声が耳に届いたのか、それまで貝のように瞑っていた渡辺の瞼が薄っすらと開いたかと思うと、歩き出す三上の背中に向かって怒鳴り付けた。と言っても弱っているから力が出ない。精いっぱいの、蚊の鳴くような声だった。 『救急車なんか、御免だな』  一斉にみんなが注目、三上も足を止め振り返る。けれどもうそれが限界、渡辺は直ぐにまた目を瞑った。再び駆け寄る三上。 『そんな訳にはいきませんよ、ねえあなた』  囁くように三上が言うと、渡辺は切れ切れに答えた。 『いから、放っといて、くれだな』 『でも、このままじゃ、死んでしまいますよ』  更にやさしく囁く三上に、渡辺はけれどやけっぱち。 『それで、いんだな、どうせ人間の屑。このまま死なせて、くれだな』  人間の屑……。 『そんな』  尖がった頬骨も痛々しい、もう骨と皮だけの痩せこけた体で横たわる渡辺に、憐れみの眼差しを向けずにいられない三上。自棄になっているのか、強情っぱりなのか。それでも他人の善意を払い除けるだけの力は、今の渡辺には残っていない。  仕方がない、それならここで看病するしかあるまいと腹を括った三上は、斉藤たちの協力を得、みんなでマジソンバックと共に渡辺を公園の隅まで運び雑草の上に寝かせた。草の上を春風が吹き過ぎ、桜の花びらが舞い踊る。放っておくと渡辺の体に舞い落ちて、死人の顔に被せる白布のように渡辺の顔を覆い隠す花びらまた花びら……。  その日から三上の渡辺への介抱が始まる。本当ならマンションの自分の部屋に連れて行きたいところだけれど、体臭が気になるのと渡辺が嫌がるのとで止め、代わりに斉藤たちの教えを乞いながら三上は生まれて初めてブルーシートのテントハウスをこしらえると、その中に渡辺を移動させ、勿論マジソンバックも忘れない。  幸い土曜日、その日はずっと付きっ切り夕方から夜明けまで一晩中渡辺の枕元で看病、少しずつ食べ物と水を与えた。嫌がったり文句言いながらもお粥を啜る渡辺の姿はとても憎めない、むしろ可愛ささえ覚えた。春とは言っても夜になるとまだ寒さが厳しい。かと言って暖房の用意などない。渡辺の体に毛布を掛け、自分もハウスの隅で別の毛布に包まり膝抱え眠る三上。空腹を満たした渡辺は、無邪気な子どものようにすやすやと寝息を立てる。  土日が過ぎ、起きたり動いたり出来るまで回復した渡辺は、風の丘公園やお節介な三上なんぞの前からとっとと姿を消してしまいたかったけれど、生憎今度は風邪を引きまた寝込んでしまう。そんな渡辺を、良い人の三上は引き続き看病。仕事を休む訳にはいかないから、会社が終わったらまっ直ぐに飛んで帰って、渡辺の面倒を見た。  三上の献身の甲斐あって、すっかり元気になった渡辺は、或る日夜明け前に目が覚めた。ああ随分と長居しちまった、さあ今こそこっからおさらばだと、体を起こした。けれど見ると、ハウスの端っこで毛布に包まり三上が寝ている。その邪気のない顔といったら、たまらない。直ぐ目の前には、お粥の残りがそのまんまの丼がひとつ。け、不味いお粥ばっかし食わせやがって。見るとお粥の米粒の上に、数枚の桜の花びら。おっ。なぜか心が引き止められる渡辺だった。  桜、かあ。辺りはシーンとしていて、隣近所からの寝息も聴こえて来るよう。こいつ、本当にお節介でとんだお間抜け野郎ではあったけれど、ここまで世話になったんだ。一言の挨拶もなしでは、忍びない。せめて朝まで待つかと目を瞑り掛けた瞬間、今度は三上の目がぱちっと開いた。  あらまあ。ふたりの目と目が合って、三上が小さく口を開く。 『ああ、ついうっかり熟睡してしまった。御免なさい、あなたの家なのに、勝手に』  俺の家……。何言ってんだ、こいつ。じーっと見詰める渡辺に、やさしく囁く三上の旦那。 『どうです、具合は』  余計なお世話だと、怒鳴ろうとしたけれどまだ夜明け前。いけね、いけね。口を閉ざし、代わりに三上の目をぎろっと睨み付けた。三上の目、それはそれは澄んだ眼差しをしている。小刻みに唇が震えるのを覚えた渡辺、なぜか俄かに嵐のような嗚咽の予感。この男、ほんとに俺を心配してくれている。確かにこいつの目は本物、人を心配している目だ、間違いない。俺には分かる。なぜなら俺は、俺は、人間の屑だから。こんな俺なんかを、何でだ、こいつ本当のばかか……。 『桜が、きれいですよ』  桜。お粥の丼に目を落とす渡辺。 『いつも不味いお粥で、すいませんでした』  でした。なぜ過去形。 『ここから出てゆきたいのなら、もう引き止めはしませんから』  何言うんだ、行き成り。 『初めて会った時より、もう随分顔色も良くなられましたしね』  そんな、あほな。 『もし何かあったら、またいつでもここに帰って来て下さい』  帰って来て。それじゃ故郷みたいじゃねえか丸で。俺には生憎もう、故郷なんざないってえのに。そんな俺に帰って来て、だと。ったく……。遂に渡辺の瞼に、涙がぽろり。 『あんちゃん。あんた、良い人なんだなあ』 『違いますよ』  照れ臭そうに笑い返す三上に、渡辺の目からすうっと涙の滴が零れ落ちた。しばし黙ったまんま睨めっこのふたり。その時から三上を渡辺は、あんちゃん、と呼ぶようになった。  その日から、夕暮れになると決まって風の丘公園の片隅で、渡辺の吹くエデンの東の痩せた口笛が聴こえるようになった。三上はバリカンを使って公園の住人たちの散髪もして上げていたから、渡辺の髪と髭もばさっと刈って上げた。渡辺は丸坊主。 『こりゃ、さっぱりしただな。有難う、あんちゃん』  丸で何処かの寺の痩せこけた修行僧の風貌、余りの変身振りに公園のみんなも大爆笑。  と言って渡辺が他人に心を開いたり、仲良くなったりした訳ではない。無口で無愛想で殆ど誰とも口を利かないのは、公園に来た当初から変わらない。辛うじてたまに三上と口を利く程度。それとて三上が質問して来るから、仕方なく答えてやってるといった態度。例えば、この通り。 『どうしていつも、その曲ばかり吹いているんですか』 『さ、知らねだな』 『何処から来たんですか』 『そんなこた、風にでも聞いてくれだな』  渡辺ったら、ニヒルにうそぶくばかり。 『一杯やりませんか』 『良かったら、一本どうです』  折角酒に誘い、煙草を勧めても、素っ気なく断るだけ。  だから今もって渡辺の過去、人生については誰も何も知らない。何処で生まれたか、何をしていたのかまったく正体不明。周りからは変わり者扱いだけど、お互い触れられたくない過去のひとつやふたつは引き摺る身。何とかかんとか時は穏やかに過ぎていった。  ただ三上が渡辺を呼ぶ時に、あなた、じゃどうも具合が悪い。 『せめて名前だけでも、教えてもらえませんか』 『そんなもな忘れた。名無しの権兵衛か、へのへのもへじだな』 『また悪い冗談を』 『なら、人間の屑、でどうだな。そう呼んでくれだな』 『嫌ですよ、そんなの絶対』  で仕方なく、渡辺、と姓だけは教えてくれたと言う訳。でも本名かどうかは怪しい。
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