(三)赤い傘

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(三)赤い傘

 日々ボランティア、人助け、公園の住人たちの世話に明け暮れる三上は、常に恋人募集中なれど良い人過ぎるのが災いしてか、生まれてからずっと彼女も出来ず寂しき独身貴族を通して来た。そんな三上にもいよいよ人生の春、運命の人との出会いの時が訪れる。しかも縁結びのキューピットは渡辺。  三上の人柄と介抱によって風の丘公園で大人しく暮らし始めた渡辺だったけれど、時より人迷惑な騒ぎを起こす。どんな騒ぎかと言えば自殺未遂。何ゆえかは分からねど発作的に死にたくなるらしく、頻繁に繰り返す。繰り返しては運が良いのか悪いのか、いつもぎりぎりで助かったり誰かに、殆ど三上にだったけれど、助けられる。  風の丘公園での初めてのそれは、桜の枝に紐を垂らしての首吊り。けれど紐が弱過ぎて途中でぷつんと切れてしまい、あえ無く失敗で、公園のみんなの笑い者。三上だけは深刻に受け止め、渡辺に細心の注意を払うようになった。食い物や消耗品を小まめに届け、可能な限り渡辺のハウスを覗く。姿がない時は急いで公園や近所を捜し回る、そんな日々の繰り返し。ビルやマンション屋上からの飛び降り、車道、線路への飛び込み、舌噛み等々。でも本人もまだ決心し切れないのか、いつも未遂で終わる。  そんなお騒がせ渡辺が風の丘公園で暮らし始めて二ヶ月が過ぎた去年の六月、遂に女神は三上の前に現れた。  雨の日が多くなるこの時期、けれどどんな豪雨でも渡辺は傘を差そうとしない。気になった三上は、渡辺に尋ねる。 『渡辺さん、傘は待っていますよね』  と言うのも、渡辺の唯一の荷物であるふたつのマジソンバッグのひとつ、その端が破けていて確かに傘らしき物が見えている。けれど渡辺は、かぶりを振って答える。 『いや、持ってねだな』 『じゃ、あれは何ですか』  三上が指差すと、どうした訳か渡辺は珍しく焦った様子で、白を切るばかり。 『それは傘じゃないだな』  ま、これ以上追求するのも野暮かと三上。 『じゃ、これ使って下さい』  渡辺に、透明なビニール傘を渡した。  雨の降る或る日、例によって渡辺は突然死にたくなる。それは土砂降りの土曜日の午後。三上にもらったビニール傘など目もくれず、そのままふらっとハウスを出てびしょ濡れになりながら、風の丘町の踏切の方角へ、線路へと向かった。その姿を見掛けた岡が珍しく協力的に、三上へと連絡を入れる。吃驚した三上は渡辺が自分のハウスにいないことを確かめ、それから渡辺の後を追い掛けた。  カンカンカンカン……、踏切の前。雨に打たれながら思い詰めたようにじっと濡れた線路を見詰める渡辺は、誰も寄せ付けない恐ささえ漂わせている。遮断機の向こうを山手線が通過した後、遮断機が上がり待っていた人たちが雨の中を歩き出す。反対側からも人波が押し寄せ、その中に赤い傘がひとつ、ひとりの女が歩いて来る。激しい雨が傘を叩いて、雨粒の音が弾けるように落ちてゆく。  赤い傘の女は擦れ違いざま渡辺に気付く、渡辺の異様さに。遮断機が上がっても一向に歩き出そうとしない、ずぶ濡れのままじっと線路を見詰めている渡辺の顔、目付き。一旦通り過ぎた後、気になったのか女は引き返し、そっと渡辺の隣りに立つ。それさえ気付かぬ渡辺に、そして女は静かに話し掛けた。 『風邪、引きますよ』  同時に赤い傘を差し掛けた。女の白い息が雨の中に吸い込まれる。  はっと我に返った渡辺は顔を上げ、女の顔も見ずに、ぶっきら棒に零した。 『放っといてくれだな』  ところが思い詰めた目でぎょろっと女の顔を睨んだその時、突然渡辺の表情が驚きに変わり、黙ったまま今度はじっと女の顔を見詰めた。カンカンカンカン……、再び山手線が土砂降りの中を通過した後、女と渡辺の背後に、もうひとつの影。それは三上だった。 『渡辺さん、傘持って来ましたよ』  はあはあと乱れた息を整えながら、透明のビニール傘を差し出す三上。けれど野郎など眼中にない渡辺の視線は、女の顔に釘付け。じっと見詰められ、女は戸惑うばかり。 『渡辺さん、何してるんですか』  渡辺に話し掛けながら、釣られて三上も女の顔を見る。三上は女に会釈し、微笑み掛けた。 『どうも、ご親切に有難うございます』  良かった、知り合いの人が来てくれて。三上の出現に安堵しながら、女は答えた。 『いいえ、わたしは何にも……』  初めて言葉を交わし、女と三上の目と目が合って、なぜかふたりは胸が詰まった。お互いに悲しいような切ないような、それでいて嬉しいような懐かしいような、そんな感情が生まれては消え生まれては消え、ふたりの心はしばしときめきの中に戯れた。  けれど元来良い人の三上はさっさとときめきを断ち切り、気持ちを渡辺に戻した。 『しっかりして下さい、渡辺さん』  雨に濡れた肩をぽんと叩かれ、再び我に返った渡辺は、女に向かってこう告げた。 『ああ、済まねだな。あんた、似てたもんで』 『誰に、似てたんですか』  女と渡辺との間に割って入ろうとする三上。 『観音様……。いや何でもねだな、独り言、独り言』  珍しく照れ臭そうに笑う渡辺。 『おいら、もう大丈夫だな。あんちゃん、頼みがある』 『何ですか、行き成り』 『この人を、駅まで送ってってくれだな』 『えっ』 『えっ』  女と三上は同時に声を発し、互いに顔を見合わせた。ところが渡辺ときたら、いい気なもの。 『今日はこの人のお陰で助かっただな。だからあんちゃん、後は宜しく頼むだな』  ふたりをよそにそう言い残すと、三上から受け取ったビニール傘を差し、水も滴るいい男宜しく渡辺は、さっさとひとりで公園に帰ってゆく。  後に取り残されたふたり。三上の心臓は思い出したように、どきどきどきどき……。今更ながら、女の赤い傘が目に沁みる。降り続く土砂降りの中、渡辺の頼み通り鶯谷駅まで女を送り届ける道すがら、三上は女に渡辺や風の丘公園の住人たちのことを話して聞かせた。すると赤い傘の女の方も、どうやら良い人らしく、三上に好意的。 『それは大変ですね』 『いえいえ、根っからのお人好しなもので。困った人を見ると、ついついお節介を焼いてしまいます』 『あらまあ、でしたらわたしもおんなじ。休日は、ボランティア活動に参加してますから』  こんな調子で、思いの外ふたりの会話は弾み、あっという間にもう鶯谷の駅の前。何だかこのまま会えなくなるのも忍びないふたり。  普段は女に対して消極的な三上も、この時ばかりは初対面にも関わらず、積極的に女を誘った。 『良かったら一度、来週にでも風の丘公園に遊びに来ませんか』  すると、意外や意外。 『はい、喜んで』  女の方も乗り乗りで、その日のふたりは鶯谷駅の改札前で何事もなく別れた。  さてこの赤い傘の女、麻田美樹三十歳である。翌週の晴れた土曜日の午後、美樹は約束通り風の丘公園を訪問し、無事三上との再会を果たした。そこは良い人同士、たちまち意気投合。風の丘公園のベンチでボランティア談議に花を咲かせたふたりは、ぐいぐいと心惹かれ合う。ふたりは程無く、お付き合いをスタート。交際は順調で独身貴族の三上もいよいよ年貢の納め時かと、公園のみんなも近所の爺さん婆さん連中も、冷やかしたり祝福したりの大騒ぎとなった。  美樹は風の丘公園にもちょくちょく顔を出し、公園の住人たちとも交流を持つから、自然渡辺とも顔を合わせるようになる。するとあの渡辺にも、徐々に変化が起こって来る。例えば、三上とふたりで渡辺のハウスを訪ねれば。 『渡辺さん、元気にしてますか』  美樹が観音様のようににこっと微笑むと、無愛想な筈の渡辺の顔もつい綻ぶ始末。美樹が女だからと言う理由ばかりでなく、出会った日から渡辺が美樹に何か特別な感情を抱いていたのは明らか。そんな渡辺が実際のところ美樹をどう思っているのか、三上としては大いに気になるところ。あの時美樹に向かって渡辺が告げた『あんた、似てたもんで』という言葉も引っ掛かる。一体誰に似ていたと言うのか。  もし仮に渡辺が美樹に恋心など抱いているとしたら、三上として余り歓迎すべきことではないけれど、今のところそんな気配はない。渡辺が三上に焼きもちを焼いたり、冷たく当たることもなし。ただ美樹の顔を見ると、それまで暗く如何にも死にたそうだった渡辺の顔にさっと明るい陽が差すのだった。 『はい、観音様。おいらなら元気だから、何も心配いらないだな』 『嫌だ。わたし観音様なんかじゃなくて、普通の人間ですよ』  照れる美樹に、けれど渡辺はお構いなし。 『おいらには観音様だから、それでいいだな』  びしっと背筋を伸ばして、敬礼でもするかと思う程元気になる。それは丸で母を慕う純真な少年の姿にも似て。  更に渡辺は美樹と顔を合わせる毎に、少しずつ三上を始め周りのみんなとも挨拶程度なら交わす位にまでなって、流石女は偉大と公園のみんなを驚かせた。尤もそれで渡辺の死への衝動がなくなると言う訳ではなく、美樹が来ない日に限って、相変わらず自殺未遂を繰り返していた。  そんな中、次第に結婚を意識し始める美樹と三上の御両人。けれどそこは良い人の三上。自分の直ぐ傍に大変な生活を強いられる人たちがいるのに、自分だけ幸せになる訳にはいかなーい。なんてついつい思ってしまう。それに渡辺のことだって正直気になる、気になる。もし美樹に思いを寄せているとしたら……。そんなあれこれを考え、中々決心のつかない三上だった。  そこで思い切って渡辺に相談する、と言うか、渡辺の気持ちをそれとなく確かめてみた。 『ねえ、渡辺さん』 『何だな、あんちゃん。そんな深刻な顔して』 『実は他でもない。美樹さんとの結婚のことなんですけど』 『それが、どうかしただな』 『ええ。みんなのことを思うと、ぼくだけ幸せになっていいものなのか、迷っているんですよ』  すると呆れ顔して、渡辺はこう零した。 『あんちゃん、何言ってんだな、あんた。あんちゃんみたいな良い人が幸せになんなくて、どうするだな。それに美樹さんて何だな、その他人行儀な呼び方』 『はあ』 『美樹でいいだな、美樹で。もうまったくじれったいったら、ありゃしないだな』  渡辺の言葉に後押しされ、三上は遂に結婚を決意する。  こうして愛のキューピットの渡辺と出会ってからちょうど一年、季節が巡って訪れたこの春、三上は美樹と目出度く婚約した。結婚式の日は美樹の希望でジューンブライド。渡辺の縁結びでふたりが出会った六月の予定に、相成りましたとさ。
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