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(五)人身事故
ああこれで、あの夕暮れの哀愁に満ちたエデンの東の口笛も聴けなくなる。三上にとって、渡辺との突然の別れは寂しさもひとしお。何しろ公園の住人の中でも一番手の掛かる問題児ならぬ問題おやじだったものだから、いざいなくなるとぽっかりと心に大きな穴が開いたようで堪らない。けれど三上には、そんな感傷に浸っている暇などなかった。
渡辺のいない寂しさにため息吐いている間に、時は早六月。美樹との結婚式は六月十五日大安吉日だから、もう二週間しかない。出会いから一年が経過し共にひとつ年を取り、三上三十六歳、美樹三十一歳と決して若いとは言えないふたり。それに何と言っても、ふたりとも良い人。式は極力質素に済ませハネムーンも行かず、その分浮いたお金を記念の寄付に回そうと話し合っていた。具体的には美樹が参加するNGOでラオスの貧しい村に図書館を建設する計画があり、その資金援助をしよう。そうすれば竣工の際入り口の看板に、以下の文が永久に明記されるとのこと。
「この図書館は哲雄三上と美樹三上、両氏の協力により建てられたものである」
ところがそんなゴールイン寸前のふたりの前に、突然の悲劇が襲った。
梅雨入り直後の六月十日、その日は朝から激しい雨が降り続いた。いつも何かが起こる土曜日の午後。空はどんよりと曇り、街も昼間っから薄暗い。鶯谷駅山手線のホームには、三歳位の幼女を連れた若い母親が立っていた。しかし母親は携帯電話に夢中で、娘への注意を完全に怠っていた。娘は自由奔放、好き勝手にホームの上をちょこまかと動き回っている。ホームは雨で滑り易く、如何にも危なっかしい幼女の動き。
その同じホームを、たった今山手線を下車して三上の許へ急ぐべく、改札へと向かい歩いていたのは我らが美樹。ホームには山手線到着のアナウンスが流れる。携帯電話の母親並びに幼女と擦れ違った後、何気なく振り返った美樹の目に、ホームの端から線路に落っこちそうな幼女の姿が映った。なのに母親は相変わらず、携帯電話の画面に釘付け。ちょっと、何やってんの、あのお母さん。などと呆れている余裕など美樹にはなかった。なぜならレールは既にぶるぶるぶるっと、近付いて来る山手線の振動を伝えていたのだから。あの子を助けなきゃ。咄嗟に美樹は絶叫した。
『危なーーーい』
と共に幼女目指して、猛スピードで走り出す美樹。美樹のヒールの音が、ホームに木霊する。やっと気付いた母親の手から、携帯電話がスローモーションで滑り落ちる。しかし美樹の声と足音を掻き消して、無情にも山手線の汽笛がホームに響き渡る。とても間に合わない。焦った美樹は、一か八か思いっ切りジャ、ジャ、ジャンプ。幼女に体当たりしながら、幼女の体をホームへと押し返した。しかし美樹の方は幼女の身代わりとなって、そのまま線路へ落ちてゆくしかなかった。一瞬にして、万事休す。
『ぎゃーーーっ』
『ママーーーっ』
母親の絶叫と幼女の泣き声。運転手は即座に急ブレーキを掛け、山手線はキーーーッと呻く様なまたグニャッという不自然な異音と共に、ホームの途中で急停車した。ホームは騒然、一瞬にしてパニック状態へと陥ったのであった。
その時傘を差し風の丘公園でひたすら美樹の到着を待ちわびていた三上は、ふっと何かを感じた。胸騒ぎ、虫の知らせ、涙の予感、そして謝罪或いは感謝の念である。カンカンカンカン……とさっきから遠くで鳴り止まない踏切のシグナルの音にぼんやりと耳を傾けながら、そして三上は美樹に連絡を取らねばと言う切迫した想いに駆られた。ところがそこへ傘も差さずに血相を変え、斉藤が飛び込んで来た。
『どうしたんですか、斉藤さん』
いつものように落ち着き払った声で問う三上に、しかし体中ずぶ濡れの斉藤は息を切らしながら夢中で答えた。
『大変だ、大変だ、三上さん。今駅でね』
『駅で、何かあったんですか』
矢張り冷静沈着なる三上。
『ああ、何かあったってもんじゃねえよ、三上さん。人身事故だ』
『人身事故……』
ぴくっと何かを悟ったように、三上の眉間に一瞬皺が寄った。
『若い、女の人らしい』
ゆっくりと低く囁くように告げた斉藤の目に、雨ではない確かに涙が滲んでいた。
『そうですか、分かりました』
三上の声はそれでも冷静で、わざわざ駅からここまで息を切らして来た斉藤を労って上げたいとさえ思っていた。濡れた斉藤の肩に手を置いて、三上は告げた。
『御苦労様でした。本当に有難う御座います、斉藤さん。あなたはここで休んでいて下さい。駅へはぼくひとりで、向かいますから』
何処までも落ち着きを崩さない三上に驚きながらも、斉藤は三上の言葉に素直に従った。差していた傘を斉藤に渡すと、三上は冷たい雨の中、矢のように尖がった雨粒に打たれながら駅へと駆け出した。鉄砲玉のように、まっ直ぐ一直線にまっしぐら。走っているうちに感情が高ぶって来て、他人様から狂人と見られようがお構いなし、美樹、美樹、美樹と止め処なく大声で叫びながら駆けていた。灰色の空中いっぱいに、美樹の顔が大きく浮かび上がっている。しかもやさしく三上に微笑み掛けるように。何て穏やかな、その表情は正に観音様……。渡辺が美樹をそう呼んでいたのも、あながち誇張でもお世辞でもなかったのだと、今にして三上は気付く。
鶯谷駅に到着し、山手線のホームへ。まだ警察による現場検証が行われている最中、喧騒、野次馬や鉄道員、救助隊や警察の中に紛れながら三上はふと、今ここに渡辺がいてくれたらどんなにいいだろうと願った。なぜだかは分からない。ただあの男なら何も言わなくても、今の自分の気持ちを誰よりも分かってくれる。そんな気がしてならなかった。けれどその渡辺も今はいない。脳裏に浮かんだ渡辺の面影に不思議に勇気を得た三上は、近くの警官へと声を掛けた。
『もしかしたら被害者は、わたしの婚約者かも知れません』
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