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(六)どん底
それまでバラ色或いは七色の虹の世界の住人だった三上哲雄の視界は、突如暗黒の闇に占拠された。すべての光と色彩とを失った三上は愛を失くした囚人として、モノクロTVの世界に閉じ込められてしまったのである。
それ程までに麻田美樹の突然の死は、幸福の絶頂にあった三上を奈落の底に突き落とした。あんなにポジティブの塊だった三上が、人が変わったように悲しみに沈み涙に暮れ、仕事も手につかず他人と会話することも出来ない。会社でもご近所でも人々は皆心配しつつけれど気を遣い、すっかり腫れ物三上と化してしまう。
でも根が良い人なんだから、そのうちきっと立ち直ってくれる、元の三上さんに戻ってくれる筈だ。善良な人々は皆、そんなふうに三上を信じそして待った。けれど三上の悲しみは他人様が思う以上に深刻で、日を追う毎にますます重症、悪化の一途を辿った。何とか立ち直ってもらおうと、一時は三上の部屋を訪ね励ます会社の同僚、ボランティア仲間、近所の人たちの姿も見られたけれど、そのうちみんな諦め、いつしか部屋を訪ねる者の姿も途絶えた。
仕事は休みがちになり、七月遂に休職。食事も不規則だったり食べなかったりで日に日に痩せ、中年おやじのようにふっくらしていたお腹も引っ込んでスマートに。公園の住人たちへの援助も忘れ、ボランティアも募金も一切止め、近所の爺さん婆さんと道で擦れ違っても挨拶どころか見向きもしない。
とうとう一日中部屋に閉じ篭るようになり、人前に姿を見せない。それでも腹は減るのか、人と顔を合わせないように深夜こっそり外出すると、それまで一度として利用したことのなかったファーストフード店に入ったり、コンビニで食料をまとめ買いしたりと、余り良い噂を聞かない。目撃された姿といえば、髪はぼうぼう、髭は伸び放題、顔は青白く痩せこけ、悲しみに沈んだ目だけがギラギラと異様に鋭く、虚ろな闇を投げ掛けていた。その姿は何処か、あの渡辺を彷彿とさせるに充分であった。
八月になると暑さのせいか、奇行も見られるようになる。雨の日にはぶらっと外に出て赤い傘を差した若い女の後を付いていったり、事故現場である鶯谷駅の山手線のホームに一日中佇んで、何かぶつぶつと独り言。美樹、美樹と呼び掛けながら、彼女の面影に話し掛けたり。どんなことを呟いているかと言えば、彼女がいない寂しさ、ぽっかりと空いた心の隙間を嘆き憂い、彼女を救えなかった申し訳なさを詫び、自らの不甲斐なさ無力さを責めて責めて責め立てる。それは聴く者の心を揺さ振らずにはいない、悲痛な心の叫びだった。
そんな悲劇の男三上が唯一欠かさなかったのが、仏壇に飾った美樹の遺影への日々のお祈り。それに美樹の実家である三浦海岸近くにある美樹のお墓へも、お盆、お彼岸とお参りを忘れなかった。
チーン、チーン……。仏壇の鈴を鳴らし、日々こつこつと三上は美樹の遺影に手を合わせる。どうして良い人の美樹がこんな目に遭わなければならないのか、出来ることなら代わって上げたかった。いや今からでも遅くない。神様、もしもこの世に本当に神様がいると言うのなら、そんなに無慈悲にあんなにやさしく心の美しい彼女を見捨てず、どうかこの薄汚れたぼくの命と引き替えに、どうぞ美樹を甦らせて下さい。もしもそれが叶わぬ願いと言うのなら、ひとり残されたぼくに生きる望みなど何ひとつとして御座いません。さっさとぼくも、お迎えに来てくれませんか。そしてせめて天国でもう一度巡り会わせて下さいな。お願い、神様、仏様、それから本家の観音様、チーン、チーン……。
日々の祈りを通して、早く死にたい、死んで天国で美樹と再会したい。そんな思いが強まり、とうとう三上は自殺願望を抱くに至る。自殺といえば、あの渡辺。美樹の事故が起こった当日もそうだったように、三上の心はどうしても渡辺へと向いてしまう。風の丘公園の隅にまだ渡辺のテントハウスが残っているのを思い出し、久し振りに三上は足を向けた。
気が付けば季節は既に晩秋、テントハウスの中は肌寒かった。埃だらけの床に無頓着に腰を下ろし膝抱えぼんやりと目を瞑れば、耳には街のざわめき。通行人の会話や靴音、通過する山手線の音、カンカンカンカン……と踏切の音、風に混じってくすくすくすっと聴こえ来る近所の子どもたちの笑い声。それから落葉、枯葉の音、風の音。そんな何かしらノイズが絶えず耳に届く。
ああ、こんな場所で渡辺と言う人は、毎日ひとりで一体何を思っていたのだろう。目を開き三上は物思いに耽る。どうしてあの人、いつもあんなに死にたがっていたのだろう。けれど今のぼくなら、何となくあの人の気持ちも分かる気がする。もしかすると、いやそうだ。あの人もきっと、何かとてつもなく悲しい出来事に遭遇したのに違いない。ああ、なのにあの頃ぼくは何も気付いて上げられなかった。何てことだろう、あんなに一生懸命あの人の力になりたいと頑張っていた筈なのに。結局何の役にも、立てなかったと言う訳か。
ため息吐いたら、思わず口笛。すっかりもう痩せた口笛で、気付いたらエデンの東を吹いている三上だった。渡辺さん、今頃何処でどうしているんだろ。素朴だけれど哀愁帯びたメロディに切なさが込み上げ、急に死にたい気持ちでいっぱいになってしまった三上。正に発作的。いけない、いけないと思いつつも立ち上がりハウスを出て、ゆらゆらと歩き出す。行き先はあの踏切。最後に渡辺が死のうとして三上が体を張って食い止めた、あの線路へと。
カンカンカンカン……、踏切の前。今、深刻そうにじっと線路を見詰めるのは、渡辺ではなく三上。痩せこけて顔色も悪い、おまけに痩せた口笛で奏でるはエデンの東。ここまで何もかも渡辺に似ていたら、もう苦笑いするしかあるまい。丸で渡辺が乗り移ったかのよう、或いは三上がこうなることを既に渡辺が暗示していたと言う事か。山手線が通過し遮断機が上がると、三上はゆっくりと歩き出し向きを変え、線路の中を歩き始める。その時突然の雨。冷たく激しい冬の前の雨が降り出し、踏切を渡る若い女がさっと傘を広げた。それは赤い傘。眩しい赤の色彩が三上の心と目に沁みて、雨に濡れた線路の上ではっと足を止めた。
駄目だ。やっぱりぼくは死ねない。だってもし仮に自殺が成功し上手く美樹の許へゆけたとして、はたして美樹は喜んでくれるだろうか。いや彼女は決して、ぼくを歓迎してなどくれない筈だ。それにそもそも美樹は人助け、幼女の命を救って死んだのだから天国へゆくのは当然として、身勝手に自殺した愚か者のぼくが天国になどゆける訳がない。むしろその逆、地獄に堕ちるのが当然の報いではあるまいか。それにもしぼくが死んだら、しかも自殺などと言う最悪の死に方だったなどと知ったなら、ぼくを知る人たちははたしてどう思うだろう。どれだけ辛く悲しい思いを強いることになるか分からない。今こうしてぼくが美樹の死によって打ちのめされ、悲しみもがいているように……。
たちまち死ぬ気も失せ、三上は引き返す。踏切に戻っても、もう赤い傘は見当たらない。思えばさっきのあの女、もしかして美樹の化身ではあるまいか。自殺願望を抱いたぼくを助けようとして。カンカンカンカン……、ザーザーザーザー……。凍えるような雨の中で山手線を見送りながら、死ぬことを諦めた三上の唇には、痩せた口笛で吹くエデンの東だけが残された。
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