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(七)回心
三上はもうただの抜け殻。死ぬことも出来ず、三十六歳の若き人生はそのまま余生。冬、厳しい寒さを向かえ、三上は何を思ったかわざわざ風の丘公園の渡辺のテントハウスで過ごすことに。どうやら積極的な自殺は諦めたけれど、消極的と言うか極力自然死に近いものへの執着はまだ断ち切れていないようで、あわよくば凍死など出来ないものかと、真剣に考えたらしい。毎日毎晩死ぬような寒さの中で、薄い毛布一枚を頼りに、顔も手も足もあかぎれとしもやけ。もうそろそろか、そろそろかと期待しつつ、しかしぼろぼろになりながらも結局しぶとく、極寒の冬を遂に乗り切ってしまった。ありゃりゃ、こんな筈じゃなかったのに、とほほ。
美樹の死から早九ヶ月が過ぎて、再び巡ってきた春三月。テントハウスにもまた、桜の花びらが紛れ込み舞い落ちる季節が訪れた。休職中だった会社は既に退職し、今や三上は失業の身。それでもまだたっぷりと貯金は残っており、仕事を探す気になどなれない。相変わらず心は草一本生えない真冬の荒野のまんま、春になっても渡辺のテントハウスの中でぼんやりと日々を過ごしていた。
そんな或る日、三上にも遂に転機の時が訪れる。それはやっぱり土曜日の午後、場所は息が詰まるような渡辺のブルーシートのハウスの中。時折紛れ込んでは舞い踊り、埃にまみれた床に落ちる桜の花びらをぼんやりと眺めているうち、三上はふと疑問を抱いた。
どうしてぼくは、こんなに悲しいんだろう。それは、美樹がいないから。そりゃそうだ。ではなぜ美樹がいないと、悲しいんだろう。はて、と三上は首を捻る。愛する人を失くせば、悲しいのは誰しも同じ。生者必滅、会者定離、それが人間と人生の常。この世に生を受け生きている以上、誰ひとり逃れることの出来ない万人の定めである。そんなことは百も承知。けれど果たしてそれだけなのか。それが人が誰かとの別れによって悲しくなる、理由の全てなのだろうか。いや、他にも何か別の訳がある気がしてならない。うーん、何だろう。腕を組み、三上は考える。ひらりひらりと桜の花びらが舞い落ちる。知らず知らず三上の唇には、痩せた口笛でエデンの東。エデンの東……、渡辺の面影が脳裏をよぎる。渡辺、渡辺さん、自称人間の屑。人間の、屑。あっ、そうか。もしかして……。三上の思考にさっと閃きが差し込む。そうだ、ぼくは分かったぞ。ぼん、と大きく手を叩く三上。驚いたように、桜の花びらが宙を舞う。
それは、美樹が、良い人だからに他ならない。だって、だってそうでしょ。三上はひとりで興奮気味に自問自答。だってもし仮に美樹が良い人でなく、例えば人間の屑だったりしたならば、恐らくぼくはきっとこんなに悲しまなかったに違いない。それどころかむしろ今頃、いなくなってくれて清々していたりするのではないか。
成る程成る程、確かにそうだ。何で今まで気付かなかったんだろう。本当に愚かなぼくちん。春の陽が差し込むように、三上の顔に生気が戻って来る。宙を舞っていた桜の花びらが、埃まみれのハウスの床にゆっくりと着地する。そうだ、あの渡辺さんだってぼくにとっては良い人だったから、あの人がいなくなってぼくはやっぱり悲しかった。けれど渡辺さんを嫌っていた人たちは悲しむどころか、やっぱり歓迎し喜んでさえいたではないか。うん、これだ、間違いない。閃きが確信に変わる三上だった。
でも渡辺さん、渡辺さんかあ。今ぼくがこんな悲しみのどん底にいると知ったら、あの人何て言うだろう。こんな時だからこそ、ぼくは無性にあの人に会いたい。自称人間の屑の渡辺さん。
渡辺のことを思っているうち、不思議に心が軽くなってゆく三上。風に吹かれ外へと押し戻される桜の花びらに導かれ、いよいよ渡辺のテントハウスから卒業する時が訪れた。外に出れば、そこは眩しい春の午後。やっと一筋の光が射して来た心境。心に積もっていた雪が融け始め、もしかしてぼく、もうそろそろ大丈夫かも。なあんて油断する三上だった。
とは言っても悲しいのはやっぱり悲しいし、美樹を失ったぼくの人生がこれからも余生であることに変わりはない。ではどうやって、この余生を生き抜くか。何とかかんとか兎に角この余生をまっとうし、大手を振って美樹の許へゆきたい。さて、どうしたもんか。再び腕を組み考え込む三上。でもその答えは、既に明白。キーワードは、渡辺或いは人間の屑。そうだ、よーし。ぼくももう、金輪際良い人でいるのは止めよう。渡辺さんのように、人間の屑で行こう。そしたら少なくとも、人を悲しませずに済む。ね、渡辺さん。
渡辺のテントハウスに向かって笑い掛けながら、ひとり満足そうに頷く三上。すっかり痩せたその肩に、寄り添うように桜が舞っていた。気付いたらいつしか陽は沈み、もうすっかり春の宵。見上げると空には銀河の瞬き、夜桜が風に舞い踊る風の丘公園のあちらこちらでは花見。ああもうそんな季節なのかと今更思いながらしばし三上は、酒に酔い花に酔い人生のうつつに酔い潰れる庶民たちのささやかな宴を眺めていた。
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