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(八)人間の屑で行こう
善は急げ。とばかり、と言っても何処が善だかさっぱり訳分かんないけれど、本人は至って真面目。固く善と信じ切って、心機一転。良い人だった過去の自分と決別し、新たに人間の屑としての人生を歩み出すべく、三上は先ず引っ越しを決意する。これと決めたら、行動は迅速。さっさと新居を見付け荷物をまとめ、あっという間に風の丘町のマンションを引き払う。喜び悲しみの思い出がいっぱい詰まった風の丘公園、鶯谷駅ともおさらば。心を鬼にしてご近所、公園の住人たちの誰ひとりにさえ何にも告げずに、風のように立ち去ったのだった。
引っ越し先はJR赤羽駅そば、東京都北区希望の丘町の2Kアパート。近くに希望の丘公園があるけれど、小さな児童公園でダンボールやブルーシートのハウスは見当たらない。その代わり少し歩けば荒川が流れており、河川敷には馴染み深いブルーシートのハウスが建ち並んでいて、嫌でも目に付いてしまう。三上としてはついつい気になってしまうけれど、もう昔の自分とは違うのだからと極力近付かないよう努めた。
引っ越しても、貯金はまだ余裕で残っている。従って急いで仕事を探す必要もなかったけれど、仕事を通して世間に揉まれ一日も早く立派な人間の屑になりたーいと願い、三上はさっさと社会復帰することにした。と言ってもどうせ余生なんだから、責任のある仕事なんかやりたくない。そこでアルバイトをすることに。よし、これからは安月給のバイトをしながら、細々と食いつないでゆこう。
尤も一から十まで、人間の屑で行こうと言う訳ではなかった。他人と接する時だけ、良い人を止める。だけど人に気付かれないところでは、相変わらず良い人を続けよう、こっそりと善行もしよう。例えば朝早起きしてまだ人影のない町のごみ拾いをしたり、匿名での寄付をしたり。匿名、そうだそれなら、美樹の名前で寄付しよう……。などとささやかな楽しみはまだまだ尽きない、根が良い人の三上だった。といってもバイトだから収入は激減する。よって寄付の額も当然以前より少額になるのは致し方ない。金額より真心が大事と、そこは潔く諦めた。
こうして三上は有言実行、新生活をスタートさせた。先ず近所付き合い。こちらは特に意識せずとも東京という都会、わざわざ人間の屑になろうなぞと力まなくとも、黙ってさえいればそれで良い。顔を合わせても挨拶せず、他人の生活に関心など持たず、ただひたすら無視。それだけでいざこの町を離れることになっても、誰も悲しませずに済む。でも良い人だった三上としては、最初のうちは案外苦痛で堪らなかった。人を見るとつい挨拶、声を掛けたくなる。近所のお年寄りやら道で困っている様子の人、貧乏そうな家の子どもなど見掛けると、つい気になってしまう。
コンビニやスーパーで買い物する時も、以前ならどっちが店員か分からない程丁寧な受け答えをする客の三上だったから、わざと無愛想にするなんてのも苦手。最初はお芝居みたいなぎこちなさだった。例えば何にも言わずぶすっとした顔で金を放り投げるように払い、面倒臭そうにお釣りを受け取り、とっとと出てゆく。
『何、今のおっさん』
などと店員がしかめっ面で愚痴ってくれたら、しめたもの。こうすれば店員と親しくなることもないし、三上が顔を出さなくなったところで寂しがられることもないだろう。
で、いよいよアルバイト開始。流石にバイト先での人付き合いは、避けて通れない。何かしらの人間関係が付きまとうもの。採用されるために面接では猫を被っていたけれど、職場に慣れて来るに従い、徐々に人間の屑三上の本領を発揮する。
最初のバイト先は、パン製造メーカー横浜屋の工場の夜勤。バイトを始めて一週間もしたら、仕事にも職場の雰囲気にもすっかり慣れた三上。
或る日工場の休憩所で喫煙していると、運悪く三上を良く思っていない年配の原信夫工場長補佐と、ふたり切りになってしまった。喫煙。そう、三上は煙草まで吸うようになっていたのである。なぜならその方が、ワルっぽいという単純な理由で。煙草の銘柄はハイライト。立て続けに吸いまくると頭がくらッと来て、丸で廃人にでもなったみたいで、今はもう病み付き。
良し、お説教のひとつでもしてやるか。休憩所で鉢合わせした原は、ここぞとばかりに三上に声を掛ける。
『なあ、三上くん。もう少し何とか、ならないものかね』
対して三上。如何にも面倒臭そうに煙を吐き出しながら、ぼそっ。
『へ。俺、なんもへま、してないっすよ』
生意気な三上の言葉と態度に、原も一気に不快指数百パーセント。
『ああ、へまじゃないけどね、三上くん。きみのその態度』
『は、俺の態度ってか』
分かってる癖してぽかんと口を開け、わざと間抜け面してみせる三上。それがまた工場長補佐の鶏冠(とさか)を刺激しまくり。
『だから。みんなから評判悪いよ、きみ』
ところが三上。止せばいいのに、相変わらずのすっとぼけ。
『はあ、評判ねえ』
『そうだよ、評判だよ』
『何でだろ。俺え、何もわりいこた、した覚えね、けどな』
こんにゃろ、ふざけやがって。遂に痺れを切らす原。
『ね、けどなって。言いたかないけど、きみのその愛想悪い言葉遣いと態度なんじゃないの』
ここで待ってましたの三上。
『け、そりゃ確かに態度はわりかもしんねけど、性格でパン焼く訳じゃねし。物さえちゃあんと出来てりゃ、いいんしょ。ね、ねえ、そうでしょ、おっちゃん』
『おっちゃんだと』
既に茹蛸おやじの原。それでも怒りをぐっと堪えて、クールにお説教タイム。
『いいか、三上くん。パンにはな、作る人の気持ちがこもるもんなんだよ』
『はあ、何すか、それ』
『ま、きみはまだ経験が浅いから無理もないけど、パンの味ってのはね。作る人の愛情で、決まるんだよ。パンに対する愛情、お客様への感謝。そんな気持ちがね、パンの味に滲み出るって言うのかな。分かる、きみ』
『あ、じゃ何すか。横浜屋のパンがまじいのって、もしかして、俺のせい』
『こら、三上』
『こりゃ、失礼致しました、工場長様』
『補佐だよ、まだ。悪かったな、工場長じゃなくて』
『でしたね、重ねて失礼。それでは、さようなら』
ぺろっと舌出し、とっとと休憩所を後にする三上。苦々しくその背中を見送りながら、原は零す。
『あの野郎、とっとと首だ』
横浜屋での三上の人間関係は、誰に対してもこんなようなもの。無愛想で生意気で孤独。けれどそれがお芝居だと気付く者は、誰もいなかった。夜勤明けの工場の隅で眠そうな目で野鳥にパン屑をばら撒く三上の背中が、凍り付くよな寂しさに泣いているのを知る者など誰も。誰かを不快にさせる時、いつも心の中では、ほんとうすいません。これもやがてぼくがあなたの前から姿を消す時、あなたを悲しませない為の目いっぱいの演技なんです。どうぞどうぞ、お許し下さい。などと呟きながら相手に合掌し、謝罪を忘れない三上なのだった。
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