(一・三)第一ラウンド・1分30秒

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(一・三)第一ラウンド・1分30秒

 港町保育園を卒園し、市立の留萌北港小学校に入学した。この学校は学年で二クラスずつ有り、全校生徒約五百人という規模の小さな小学校だった。自分のクラスには三十五人の生徒がいて、担任の小室哲子はお嬢様育ちのツンと澄まして何処か冷たそうな厚化粧の中年女だった。幸子は小学校に自らの職業をサービス業と申告したが、小室哲子は何処で誰に聞いたのか、幸子が特殊浴場で働いていることを知っていた。そのせいか何かにつけ、小室は自分を露骨に嫌悪した。  小学生になった自分は、最早泪橋に行くのを拒んだ。仕方なく幸子は、夜間自分ひとりで留守番することを許した。晩御飯は店屋物で済ませた。こうして幼少時世話になったお峰と、疎遠になった。  福寿荘にいても土曜の夜は変わらず、あしたのジョーを見ていた。泪橋のものと違い、電波の入りの悪い小型のおんぼろTVだったけれど。小学一年の秋、しかしあしたのジョーは最終回を迎え終了した。矢吹丈を心の支えとし、矢吹丈に自身を重ね合わせていた自分はショックと寂しさを覚えながらも、夜間ひとりぼっちでいることに耐え、孤独に強い子どもになった。  あしたのジョーを失った寂しさを紛らす為、土曜の夜は留萌港に足を運ぶようになった。その道すがらシャドウボクシングをするようにもなった。人影のない埠頭でしゃがみ込み膝抱え潮風に吹かれながら、寡黙な夜の海に話し掛けた。海が、唯一の話相手だった。口癖はやっぱり、こうだった。 「ぼくも何処か遠くへ行きたい、ジョーみたいに……」  小学校も低学年の間は、教室で悪い噂話など起こらなかった。幸子の職業について、とやかく言う者はまだいなかった。しかし学年が上がるにつれ、泪橋がどんな場所なのか、幸子の仕事がどういうものなのか、先ず自分が薄々気付き胸を痛めた。次に他人がその事実を噂しないか、そわそわ、ぴりぴりの神経質になった。そして四年生に進級した途端、恐れていたことが遂に現実のものとなって自分に襲い掛かった。  落書き……。或る朝登校すると、自分の机の上に、その落書きは成されていた。白チョークで大きく、こう記されていた。 『お風呂の子』  直ぐには意味が分からなかった。しかし意味を悟った瞬間、血の気が引いた。胸にナイフが突き刺さったような痛みを覚えた。息が詰まりそうになった。  この日から、そして学校での地獄が始まった。教室は戦場と化した。自分は常に怯えた。孤独。挨拶をしても、みんなから無視された。しかしそれを非難する勇気もなく、もしあったとしても、誰に文句を言えば良いのか分からなかった。そんな教室の隅で机にしがみ付きひとりぼっちで闘っていた自分を支えてくれたのは、他でもない矢吹丈だった。この教室が自分には四角いリング、ジャングルに他ならなかった。  しかし自分にはもうひとつ、戦いのリングがあった。それは福寿荘。なぜなら幸子が頻繁に、部屋に男を連れ込んでいたからだ。その男にしても刺青をした、如何にもヤクザ風の男ばかりだった。襖一枚隔てた隣りの部屋から、男に抱かれる幸子の声が漏れ聴こえ来た。安アパートだから隣近所にも筒抜け。恥ずかしいやら、居た堪れないやらで、勉強どころではなかった。そんな時は深夜であってもこっそりと福寿荘を抜け出し、留萌港に向かった。夜の海に向かってシャドウボクシングをして、気を紛らわせた。そして海に向かって呟くのは、やっぱりあの言葉だった。 「ぼくも何処か遠くへ行きたい、ジョーみたいに……」
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