(一・四)第一ラウンド・2分

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(一・四)第一ラウンド・2分

 小学校をなんとか卒業し、小学校の教室というリングから解放されたのも束の間、自分は市立の留萌第二中学校に入学した。真新しい詰襟の制服を着た中学生とそうでない小学生との差は、夜ひとりで留萌港の波止場にいても特に怪しまれないことだった。  小学校の卒業式の頃まで、留萌の街も港も降り積もった雪に覆われていた。埠頭につながれたまんまの、ただでさえ錆び付いた漁船は、雪化粧で凍り付いたまま冬を越えた。留萌港界隈には元々たくさんの野良猫が棲息していたけれど、いつから住みついたものか近頃は花街から流れて来た野良猫の数も多かった。自分にもまだ花街のにおいが染み付いているからなのか、そいつらに限って餌を求めて愛想良く寄って来た。  今宵も自分の晩御飯はスーパーの弁当で、それを埠頭の端っこで広げれば、野良猫たちが寄って来た。晩御飯の後膝抱え夜の海に目をやれば、そこに映った満月が波に揺れ煌めいていた。いつか野良猫たちと一緒に眠りに就けば、まだ寒い潮風が頬をくすぐって行った。  留萌第二中学校は付近の三校分の小学校を集約して運営されており、一年生でも七クラスあった。自分は三組で、担任は久松という男だった。クラスには自分の他にも母親が風俗で働く生徒がいたこともあり、自分だけが特別な目で見られることはなかった。中学になっても教室というリングの上で、孤独な戦いに終始せねばならないと覚悟していた自分としては大いに拍子抜けした。人並みにセーラー服の少女たちにも興味は抱いたが、小学校からの孤独癖が祟って、特定の女子と付き合うなどということはなかった。  そして似た者同士と言うのか、自分にも遂に友だちが出来た。同じクラスに北野昇(しょう)という、母親が缶詰工場で働く母子家庭の少年がいて、昇の家は極貧で生活保護を受けていた。 「おまえ、小学校ん時、村八分だったんだってな」  初めて昇が自分に声を掛けて来た時の言葉が、それだった。放課後の教室で、窓から夕映えの空を眺めていた時のことだった。 「ああ、でも全然平気、平気」  自分は強がり、けろっとした顔で答えてみせた。 「そうか、えれえなあ。実は俺ん家貧乏でさ、俺もばかにされっぱなしだったんだよ」 「へえ、そうだったのか」 「そりゃ、TVもなくてな。昔、あしたのジョーやってただろ」 「ああ、やってたな、そんなの」 「あれがどうしても見たくてさ。近所の家の庭に忍び込んで、こっそり覗き見してたもんさ」 「へえ、すげえな、それ」  貧乏、あしたのジョー……。しみじみと零す昇に、親近感を覚えずにはいられなかった。こいつとなら、気が合うかも。  しかし別の日、昇は行き成りこんなことを聞いて来た。 「なあ。世の中にゃ、中学行かないやつだっているんだろ」 「ああ。詳しくは知らねえけど、やっぱりいるんじゃねえ」  すると昇は真顔で続けた。 「そっか、じゃ俺も辞めちまおうかな。中学なんて、金ばっか掛かるし」 「おい、まじかよ。辞めて、どうすんだ」 「ヤクザになんだよ、ヤクザ」 「はあ、ヤクザ……」  自分は思いっ切りしかめっ面をしてみせたが、昇は真顔のままだった。  意気投合した昇とはそれからいつも、留萌で最も賑やかな港通りというアーケード街に放課後繰り出すようになった。昇の他に、他のクラスの三河島利郎、岩田潤一も一緒だった。利郎は役者志望の貧しくはないが少しひねくれ者で、潤一は痩せこけていてガイコツという仇名だった。  福寿荘に帰れば、しかし昇たちとの楽しい気分もいっぺんに吹っ飛んでしまい、暗い気持ちに沈むのみだった。自分とて中学生になり、人並みに思春期やら性に目覚める年頃だ。なのに一向にお構いなしで、幸子は相変わらず福寿荘に男を連れ込んでいた。  しかも男たちの中には、中学生の自分に馴れ馴れしく話し掛けて来る図々しいやつもいた。 「おう、由雪の息子だけあって、なかなかの色男だな。坊主、持てんだろ、学校で」 「どうだ坊主、俺の組に入らねえか」  その頃の自分は痩せてはいたが、頭は丸刈りだったし、体は日頃からシャドウボクシングで鍛えていた。しかし相手は大人の男。喧嘩した所で、敵う筈もなかった。  段々と福寿荘に帰るのが嫌になった。幸子の情交に耽る声など聴きたくなかったし、男たちから話し掛けられるのも嫌だった。留萌港の埠頭に立って、男たちの顔を浮かべながら、そいつらの顔面目掛けシャドウボクシングを繰り返した。  昇たちと付き合うようになってからは、可能な限り昇たちと夜を共にするようになった。しかし中学生の為、いつまでも港通りの盛り場にはいられない。そこで夜の溜まり場として利郎の家が選ばれた。利郎の父親は仕事が忙しく深夜まで帰宅しなかったし、母親は母親で年中旅行ばかりして家を空けていたからだ。しかしここに居られるのも深夜まで。その後はみんなと別れ、結局またひとり留萌港へと足を向ける自分だった。  夜の海は、いつでも温かく自分を迎えてくれた。古い友のようにやさしかった。しかし待合室は既に施錠され入れなかった。だからいつも埠頭の端で、大の字になって寝た。空には満天の星が瞬き、耳には海をゆく風の音と絶え間ない波音が響いて来た。それは自分にとって子守唄だった。野良猫たちは何処にいるのか、一向に姿を見せない。代わりに沖の方から、時折りウミネコの鳴く声がした。  不意に目が覚めてもそこは真夜中の埠頭で、漠然と未来に不安を覚えた。なぜ自分が生まれて来たのか、その理由が分からなかった。なぜ幸子は自分を産んだのだろう。幸子は自分を産んだ前後、幾度となく子を堕ろしている。なのになぜ、自分の時だけ……。  秋の夜の留萌港は更に物悲しかった。こんな時化た場所から一刻も早く離れたい、遠くへ行きたい、という思いはますます強くなっていた。そして行くのならば、東京が良いと念じていた。なぜなら、矢吹丈が現れた場所、それが東京は山谷のドヤ街だったから。  段々と留萌港の寒さが厳しくなって来たこともあり、暖を求めて埠頭に繋がれた錆び付いた漁船のひとつに乗り込んでみた。しかしこの船が動き出すことはない。何処かへ自分を連れていってくれることなど有りはしなかった。ただ黴臭い臭いが、ほんのいっ時、塩辛い留萌港の臭いを忘れさせてくれた。船が揺れる度ギコギコと鈍い音がして、何もかもが一層自分を憂鬱にさせた。  船の中で横になりながら、近頃お峰が体調を崩しずっと寝込んでいると、幸子がぼやいていたのを思い出した。 「保雄ちゃんに会いたいって、言ってたよ。あんた、見舞いに行って来たら」  しかし反抗期の自分は、悉く幸子に逆らった。 「なんでだよ、行く訳ねえだろ」 「おーこわ。はいはい、好きにして頂戴」  船を下りて再び埠頭に座り込めば、月の光が海の面に揺れていた。いつのまにやら野良猫どもが二、三匹寄って来た。ふわーっと大きく口を広げ欠伸する野良猫たちに釣られ、欠伸しながら自分も眠気を覚えた。拾って来たダンボールの箱を何枚も敷いて、その上に大の字になって目を瞑れば、遠くウミネコの鳴く声がした。寝不足気味と言うか家でまともに寝ていない自分は、いつも疲労困憊、波音を枕にとっとと眠りに落ちていった。
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