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(二・二)第二ラウンド・1分
それは自分が、中学三年の夏休みの夜だった。それまで権田川と一度として顔を合わせたことのなかった自分だったが、その晩だけは幸子がどうしても福寿荘にいてくれと懇願するので、仕方なく自分は部屋にいた。そこへのこのこと権田川がやって来た。隣りの部屋で酒を酌み交わす二人の会話を聴くともなしに聴いていたが、突如幸子が声を上擦らせ、こう言った。
「お願い、もうここには来ないで」
幸子が遂に絶縁を申し出たという訳だ。成る程それで今夜自分をここに居させたのだなと、自分なりに納得した。が二人は口論となり、権田川が幸子を殴る音と幸子の悲鳴が聴こえ出した。自分はその時もう全身がたがたと震えていたが、ここで出ていかねば男でなければ息子でも、ましてや人間でもなくなってしまう。そう思ったら震える指で襖を開け、自分は唇を震わせながら叫んでいた。
「うるせんだよ、おっさん。とっとと出てってくれよ」
「なんだと」
初対面の権田川は酔っ払って顔面まっ赤。鬼の如き眼光は血走って、自分は蛇に睨まれた蛙でしかなかった。しかもその手に権田川のやつ、出刃包丁すら握り締めている有り様だった。
「いいからガキは、引っ込んでろ」
権田川の迫力に圧倒され、自分は萎縮し沈黙した。しかしじっと相手を睨み付け、その場から離れはしなかった。そんな自分と権田川の間に、幸子が割って入った。
「ガキじゃないわよ。もう十五よ、中学三年生なのよ」
「十五か。ほう、そりゃ立派なもんだ」
しかし中三のガキなんぞ、権田川の眼中にある筈もなかった。
「幸子。手前、どうしても俺と別れるって言うんだな」
出刃包丁を幸子の首元にちらつかせながら、権田川は迫った。
「そうよ」
「よーし、分かった。だったら今ここで、お前を殺して俺も死ぬ」
酔っ払ってはいるがこの男本気だと、自分なりに感じた。まじでこいつ、かあちゃんを殺す気だ。やっべえ。その時さっと自分の脳裏に、台所にある包丁の存在がよぎった。普段のシャドウボクシングなんぞ、こんな時には何の役にも立ちゃしねえ。この男を止めるには、もう、あれ、しかねえんだよ。自分はさっと台所に向かった。
「ちょっと、止めてよ。離して、痛いわよ」
権田川が片方の手で幸子の肩を押さえ付け、もう片方で出刃包丁を振りかざす。
「ぎゃーーっ、殺されるう。助けて、やっちゃん……」
その時自分は震える手にしっかと台所の包丁を握り締めながら、幸子と権田川の前に戻った。目の前には、今しも幸子の首を刺さんとする権田川の背中が、立ちはだかっていた。
「俺のかあちゃんに何すんだ、この野郎ーーっ」
そして無我夢中だった。権田川の背中を包丁で刺していた。刃物が肉を貫通するような、また骨に当たったような、何とも言えない感触を震える十本の指に残しながら。権田川の背中からどどっと血が噴き出した。
「こんちゃろ、いてえだろ、このくそガキが……」
振り向いた権田川の充血した目がギロリと自分を睨み付けたが、権田川は直ぐによろめき、幸子が身をかわした前方に倒れ込んだ。握っていた出刃包丁は畳の上に転げ落ち、そして権田川は、眠るように目を閉じそのまま動かなくなった。
「やっちゃん……」
難を免れた幸子だったが、狼狽しながら自分と権田川とを交互に見詰めていた。自分はもう権田川は死んだものと思った。自分は人を殺してしまったのだと。幸子もまた同じ思いでいたらしい。自分が握り締めていた血だらけの包丁を取り上げ、幸子は小さく言った。
「やっちゃん、早く逃げて。捕まっちゃうよ、あんたみたいな子どもが人殺しなんかしたら、死刑になっちゃうよ」
死刑、嘘だろ……。しかし幸子の声を掻き消すように、福寿荘のガラス窓を叩く物音がしていた。何かと思えば、それは雨だった。いつのまにか激しい土砂降りが、この留萌の街に落ちていたらしい。蒸し暑い。どばっと自分は汗を掻いていた。
「でも、かあちゃん」
「それしか、方法はないのよ、それしか。ねえ、やっちゃん」
ふたりとも動転していたから、後先考える余裕などなかった。
「でも、この男、どうすんだよ」
「後はわたしがなんとかするから、あんたは逃げるだけ逃げて。早く血洗って、服着替えて。愚図愚図してたら、警察来るよ」
警察。ごくんと、生唾を飲み込んだ。自分は無言で頷くしかなかった。幸子の言う通りをやって、逃亡の準備をした。それしかもう他に道はないのだと、追い込まれた心境の親子ふたりだったから。
兎に角必要だろうという物を掻き集め、中学の通学用に使っていたマジソンバッグに詰め込んだ。シャツ、ズボン、下着……。しかし途中で涙で目が滲んだ。そんな自分を、けれど幸子が急かした。
「何してんの、足らない物は後で買えばいいんだから。さ、早く」
そう言うと幸子は化粧の鏡台の引き出しから一冊の通帳と印鑑、カードを取り出し、自分に手渡した。見ると自分名義の通帳だった。
「かあちゃん」
「もしもの時の為に、貯めといたのよ。こんなことで使うなんて、思ってもみなかったけど」
自分は言葉が出なかった。加えて幸子は現金も、財布ごと自分の手に押し付けた。
「東京、行きたがってたでしょ、あんた。思い切って、東京まで逃げな。あそこに行けば、なんとかなるわよ」
「東京」
そんなことまで知ってたのか、かあちゃん。しかしすべては後の祭りだった。ついさっき幸子との親子としてのささやかな生活は、何もかも壊れてしまったのだから。自分はもう幸子の許を去って、独り犯罪者として逃亡しなければならない身なのだから。
「かあちゃん」
「準備はいいわね」
「うん」
「じゃ、さっさと行きなさい。雨降ってるから、傘忘れないで」
「分かってるよ」
渋々玄関から出てゆこうとする自分を、そして最後に幸子は呼び止めた。
「保雄」
「かあちゃん」
「なんとか逃げ切って。そして元気でね」
幸子のそれは、泣きそうな笑い顔だった。
「かあちゃんも元気でな」
そう言い残すと自分は、土砂降りの留萌の街へと、鉄砲玉になって飛び出した。
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