5-2.

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5-2.

 諒太郎の知るその場所は、中庭の端であり、校舎の影になる場所でもあった。この場所は一日中日が当たらず、草も木もまったく手入れされていない。しかし、木々が密集しているおかげで、雨の日でも雨粒が下に落ちてくることはなかった。  まだ九月だというのに、やけに冷たい空気が辺りを覆っている。  諒太郎とセレは、この中庭の片隅にやってくると、生い繁る木々のわずかな隙間に滑り込み、仄暗い視界の中で向かい合った。 「僕が何かを隠していると、君はそう言いたいのか」  先に言葉を発したのはセレだった。青い瞳でにらむように諒太郎を見ている。 「そうだよ。だって明らかに最近のセレは変だったじゃないか」  青い瞳に怯むまいと、諒太郎もきっぱりと言い返す。 「だからって隠し事をしている理由にはならない」  セレは理屈で押し通すつもりのようだが、諒太郎はその手には乗らないと決めていた。 「セレは自分の心を探られるのが嫌いなんだね。でも、そうやってごまかせばごまかすほど、隠し事をしているのが間違いないんだって僕は思うんだ」  諒太郎の指摘に、セレはむっとしたようだった。 「だから何なんだ。君がそう思うってだけじゃないか」 「そうだよ。そう思うから、僕は君が考えていることをはっきり確かめたいんだ。隠していることがないなら、そう言えばいいだけだよ」  それを聞くと、セレは一度黙り込み、鋭い目で諒太郎を見た。  ここまで言い切れば、本当のことを話してくれるだろうか。  諒太郎の中に、わずかな安堵が生まれる。セレにひどいことを言ってしまったが、これでようやく、本当のことを話してもらえそうだ。  そんな風に、諒太郎が安心しきっていたときだった。  セレが、突然こちらに向かってきた。土を蹴り、一瞬で諒太郎の眼前に迫ってきた彼は、笑っていた。見ただけで背筋がぞくりとするような、冷たい笑い方だった。 「セ、レ?」  セレの名前を呼んだはずが、その声は途中で遮られていた。  彼は、信じられないほど近くにいる。  諒太郎のすぐ目の前に。  目の逸らしようがない至近距離で――――諒太郎は、セレに唇を塞がれていた。 「ん……んぅ!?」  セレの唇が、諒太郎の唇に覆い被さって、その動きを封じていた。  諒太郎はどうしたらいいのかわからなくなり、むやみに手や頭を動かそうとした。しかし、セレは諒太郎の体を木に押しつけ、自分の体と木の幹の間で諒太郎を動けなくしてしまう。呼吸もうまくできないまま、諒太郎はしばらく無意味な身じろぎを続けるしかなかった。 「……これで分かっただろう」  数秒の後、セレの唇は前触れもなく離された。同時に体も離れていき、突然解放された諒太郎は、その場に座りこんでしまった。  やっと呼吸ができるようになり、諒太郎は苦しい呼吸を繰り返し、息を整えようとした。そんな諒太郎のことを、セレが冷たい目で見下ろしている。 「何が『君が考えていることを確かめたい』、だ。僕が隠していたことを教えれば、やっぱりこんな風になるんじゃないか」  先ほどの行為の説明などする気もないといった様子で、セレは諒太郎を非難していた。その偽悪的な態度は、二人が友人になる前、あの橋の上でセレが見せた態度によく似ている。  諒太郎は行為の内容に動揺しながらも、これがセレの本心ではないことを確信した。  セレの感情表現は複雑で、その心中を推し量ることは難しい。しかし、彼がそんな複雑な表現方法をするのは、自分の心を守るためなのだと、諒太郎はもう知っていた。  先ほど唇を塞がれたのも、セレの本当の隠し事と関係があるのだろう。それならば、これくらいのことで動揺している場合ではない。 「セレ!」  諒太郎はセレの名を呼び、立ち上がった。まだ少し足がふらつく。しかし、そんなことには構っていられない。 「君の考えている、本当のことを教えて!」  その言葉を聞いて、セレの目に明確な怒りが宿る。  殴られるかもしれない。だが、それさえも覚悟の上で、諒太郎は叫んだ。 「僕は本当のことが知りたい。セレのことを、全部知りたい。どんなことをされたって、絶対、君を嫌いになんてならないから!」 「っ……!」  セレは無言で歯を食いしばっているようだった。諒太郎に背を向け、木と向かい合うようにしてうなだれている。  きっと、今の自分はセレを傷つけている。諒太郎もそれはわかっているつもりだ。  それでも、本当のことを知りたいという自分のわがままを抑えられなかった。そのせいで今、セレをこんなにも追い詰めている。  何をされても、彼を責めることは出来ない。  悪いのは、すべて自分だから。  諒太郎は黙り込むセレに近づくべきか迷った。このままそっとしておくか、それとも。  一瞬悩んだが、諒太郎はすぐに近づこうとした。  そのとき―――― 「どんなことをされても嫌いにならないなんて……そんなこと、言うな……」  ゆっくりと、セレが振り返った。その目には、わずかに涙が浮かんでいる。 「君の優しさを、勘違いするじゃないか……」  今にもこぼれ落ちそうな大粒の涙が、セレの青い瞳を覆った。 「勘違いして、いいよ」  諒太郎は腕を伸ばし、セレの体をしっかりと抱きしめた。  セレと一緒に学校を休んだあの日、セレが望み、半ば実行しかけた行為だ。  それを、今度は諒太郎の方から実行した。  きっと、本当はセレも、心の奥底ではこうしたいと願っていたはずだから。 「君は、優しすぎる……」  もう何度聞いたか分からない言葉を、セレが再び口にする。 「君は分かっていない。僕がどんな勘違いをしそうになっているのか、少しも分かっていない……」  セレの言葉が助けを求める声に聞こえて、諒太郎は彼を抱く腕に力を込めた。 「うん……たぶん僕は、分かっていないんだと思う。だから、教えてほしい。君が何に悩んでいて、どうしたくて、そんなに苦しんでいるのかを」 「……」  セレの返事はない。  諒太郎は構わず背中に腕を回し、泣き出しそうなセレの背中を優しくさすった。  一瞬だけ、セレの嗚咽が聞こえたような気がした。 「……諒太郎は、男を好きになる男がいることを知っているかい?」  少し間を置いて、セレがぽつりと話を始めた。 「ない……と思う」 「……やっぱり僕は、君が今までに一度も会ったことがないような人間なんだな」  セレの声は涙混じりだったが、その声音は案外穏やかなものだった。  諒太郎は、初めてセレの部屋で話をした夜のことを思い出した。そのときと変わらない落ち着いた声で、セレに続きを促す。 「その話、もっと詳しく聞かせて」 「……聞いていて楽しくなるような話ではないけどね」 「でも、セレにとっては大事な話なんだよね?」 「そう……そうなんだ」  セレが緊張しているのが、声から、体から、伝わってくる。諒太郎は、大丈夫、という気持ちを込めて、もう一度背中に触れた。  セレは深呼吸をして、諒太郎に、今までずっと隠していた『本当のこと』を話してくれた。 「君も気づいただろうけど、僕の父親は外国から来た人なんだ。僕のこの青い目は父親譲り。母親はこの国で生まれ育って、瞳も黒い。  両親の仲は、悪くはなかったんだ。……ある一時(いっとき)までは」  諒太郎も緊張を感じて、ごくりと息を呑んだ。今まで誰にも話したことがないであろう、セレの過去が語られるのだ。一言も聞き漏らすまいと、諒太郎はセレを抱きしめたまま耳を澄ました。 「両親は、小さな会社を経営していた。本当に小さな会社だ。家の隣に事務所を借りて、毎日そこで仕事をしていた。僕が四歳か、五歳くらいまではそれでうまくいっていたと思う。でも、父親のしたことのせいで、僕たちのそこでの生活は終わった」 「終わった、って……?」  思わず尋ねる諒太郎に、セレは少し寂しそうに口元を緩めた。もう彼の中に怒りの感情はないのか、穏やかで、そしてすべてをあきらめたような顔をしていた。 「あるとき、父親の帰りがやけに遅かったんだ。仕事場は家の隣だから、帰りが遅いなんてことはまずない。母親も、その日が忙しくないことくらいわかっていた。だから様子を見に行ったんだ。まだ小さかった僕を一人で置いておくわけにはいかないから、僕も一緒に連れて」  セレはところどころで言葉を切る。思い出したくないことを自分の言葉で語るのは、きっとつらいことだろう。諒太郎は内心で、ごめん、とつぶやきながら、彼の言葉の続きを待った。 「父は、事務所にいたよ。自分で雇った、若い男の人と一緒に。父はその人ととても仲が良かったんだ。よく家にも遊びに来て、僕に誕生日の贈り物をしてくれたりもした。でも、その人は、……その人は……」  セレはうめくような声とともに頭を振った。よほどつらい出来事があったのだろう。その様子を諒太郎は見ていられなかった。 「セレ……ごめん。つらいようなら、もう話さなくても……」 「いいや、僕が話したいんだ。誰かに……君に、分かってほしい。本当に分かってもらえるかは、最後まで話してみないとわからないけど……」  少し乱れた呼吸のままで、セレは話の続きを始めた。諒太郎に出来ることは、彼を抱きしめていることだけだ。 「……父は、その若い男の人と一緒にいた。でも仕事はしていなかった。二人は抱き合って……口づけを、していたんだ」 「え……」  何を言われても驚くまいと決めていたのに、諒太郎は思わず声を上げてしまった。セレはその反応も見越していたかのように、小さく首を横に振る。 「本当のことなんだ。見間違いだったらどんなにいいかと、僕もそのとき思ったけれど……」 「で、でも一瞬のこと、だよね……?」  諒太郎は何とか弁護の言葉を探そうとしたが、無駄だった。 「一瞬なんかじゃない。ずっとだ。何秒も……もしかしたら、何分もずっと……父とその人は、僕たちが見ていることにも気づかずに、ずっとそうしていたんだよ」 「そんな……」  大人の男性同士が口づけをしているところなど、諒太郎には想像がつかない。しかし、幼いセレと母親にとってそれがどれほどの衝撃だったかは、わずかだが想像することができた。 「それからしばらくして、二人が体を離したときだったよ。母が突然叫んだんだ。『この裏切り者!』って、大声で。母は、二人を激しく嫌悪していた。あまりの怒りに顔が歪んで、僕も見ていて怖かったよ」 「そんなことが……」  諒太郎は、セレが以前言っていた『父も母も、誰も信じない』という言葉を思い出した。こんな過去があったせいで、セレは誰のことも信じられなくなってしまったのだ。 「そんなことがあったから、母はすぐに父と離婚した。父とその人は、その日のうちに母に追い出されて、その後どうなったのかわからない。僕はしばらく母と一緒に暮らしていたけど……その生活も、また駄目になってしまったんだ」  諒太郎はセレにかける言葉を見つけられなかった。話はまだ終わっていない。セレが体験したつらい出来事は、まだ他にも存在するのだ。 「父のことはあちこちで噂になっていたよ。男同士で愛し合うなんて気持ち悪い、どうしてそんな男と結婚したんだって、今度は母が周りから責められた。会社の経営も悪くなって、母の借金はどんどん増えた。  僕も他の子供にいろいろなことを言われたよ。本当にくだらない、つまらないたわ言を、山ほどさ。……でも、そのときの僕にとってはつらかったんだ」  諒太郎は小さくうなずいた。その頃のセレが傷つくのは当然だ。今の彼だって、傷ついていないふりをしているだけで、本当は傷ついている。幼いセレが、どれほどつらい思いをしたかと思うと、胸が塞がれた。 「僕は、しばらく親戚の家に行くことになった。違う町なら、父のことは誰も知らない。そこで僕は、何ヶ月か落ち着いて暮らすことが出来た。でも、何のことはない、その落ち着いた生活を、今度は僕自身が滅茶苦茶にしたんだ」 「セレは何も悪くないよ……!」  とっさに、諒太郎はそう断言した。しかし、セレは黙って首を横に振る。 「……あれは本当に僕のせいだった。  親戚の家の近所に、親切な男の子が住んでいて……諒太郎みたいに、本当に優しい子だったんだ……僕はその子と仲良くなった。毎日一緒に遊んでいて、僕はその子を本当に良い友達だと思っていた。それなのに僕は、あるときその子の唇を、無理矢理に塞いでいたんだよ。……ついさっき、僕が君にしてしまったように」 「……!」  セレにされたことが頭をよぎり、諒太郎は一瞬手が震えた。今よりもずっと小さい頃のセレが、今と同じことをしてしまったのだ。一体、どうして。 「どうしてそんなことを、って君は思うかもしれないけど……それは、今の僕にもよくわからない。  ただ、一つだけ僕はわかったんだ。それは、僕はあの父親と同じ、男なのに男を好きになる、頭のおかしい人間なんだっていうこと……」 「……セレはおかしくなんかないよ……」  どうしてもそれだけは否定したくて、諒太郎は言葉を絞り出した。  だがセレはあきらめたような声で、もう何度目になるかわからない「諒太郎は優しすぎる」という言葉を使う。 「それ以来僕は、『普通の子供』として生きていくことができなくなった。母は僕のことも裏切り者と罵った。自分の家には住ませないで、あちこちの家に預けては、僕が苦しむようにわざと悪い噂を流す。それでも僕は一ヶ月も経つ頃には新しい環境に慣れてしまうから、母はまた僕を別の場所にやって、もう一度苦しめようと噂を流すんだ」 「……じゃあ、僕のお母さんが聞いた噂っていうのは……」 「そうだよ。今僕が話したことと同じだ。同性を好きになるおかしい子供。そんな子供と一緒にいさせたら、自分の子供が何をされるかわからない。だからみんな、僕を遠ざけようとする」 「そんなの、ひどいよ……!」  諒太郎は、泣きそうになる気持ちを抑えて叫んだ。泣きたいのはセレのほうだ。自分が泣いてもしょうがない。しかし、セレの母の仕打ちはあまりにもひどいと思った。 「セレのお母さんだって、周りから悪口を言われてつらい思いをしたのに、どうしてセレにそんなひどいことができるの……」 「……母の肩を持つつもりはないけど、それが『普通』なんだよ、諒太郎」  セレが諒太郎の肩に優しく手を置く。セレに慰められているのだと気づいて、諒太郎は口をつぐんだ。 「母は、同性を好きになる人間を嫌っている。世の中のほとんどの人間も、きっとそうだ。そうでないのは、君と……あの店の店主くらいだよ」 「あの人が……」  諒太郎は、あの店に初めて行ったときのセレと店主の様子を思い出した。言葉がなくてもお互いを理解しているような、そんな二人の関係がうらやましかった。しかし、その関係が築き上げられた背景には、こんな事情があったのだ。 「……だからセレは、あの店の人だけは信頼していたんだね」 「信頼……といっていいかはわからないけど。少なくともあの人は、僕が悪い噂のある子供だと知っても、少しも態度を変えなかったよ。良くも悪くも」  良くも悪くも、という言葉が妙に耳に残って、諒太郎は少し苦しかった。  セレは、心から信頼できる相手になかなか出会えなかった。それどころか、『普通』なら一番信頼できるはずの家族に苦しめられてきたのだ。  せめて自分だけは、セレにとって心から信頼できる相手になりたい。  そのために、今の自分は何ができるだろう。  諒太郎は考えた。  考えたがわからなくて、結局はすぐそばにいるセレに尋ねた。 「セレ。僕はずっと、君の味方でいたいよ。今の僕に、何かできることはある? 何でも言って。それが君のためになるなら、僕はどんなことでもするから」  諒太郎は一度セレから離れて、彼の目を見つめながら言った。  青い瞳はまだ涙に濡れていたが、少しずつ、諒太郎が知るいつもの彼に戻り始めているような気がした。  しかし、それは同時に、彼の心の扉が閉まっていくことでもある。  完全に閉まりきってしまう前に、彼が本当に望むことを聞きたかった。 「……僕の話を聞いているうちに気づいたと思うけど、僕は君のことが好きだ。友達としてじゃない。抱き合って口付けをする、恋の相手としてだ」  セレは一瞬目をそらそうとして思い留まり、諒太郎の瞳を見たままそう告げた。 「だから、『勘違い』してしまいそうなんだ。君にとって、僕は友達……そうだろう? きっと。でも僕は君に、恋人として見られることを望んでいる。いくら優しい君でも、こんな注文に応えるのは無理だ」 「無理、なんかじゃ……」 「嘘なんてつかなくていい。君は良かれと思って言っているかもしれないが、そうされる方が、僕にとってはつらいんだ」 「……ごめん」  何もかもセレに見抜かれてしまって、諒太郎はどうすればいいのかわからなかった。  セレのために何かをしたい。だが今の自分ではセレの本当の望みを叶えられない。それはとてももどかしいことだった。  結局自分は、『友達』としてセレの心に見えない傷を作りながら、これまで通りの日々を過ごすしかないのだろうか。  諒太郎が落ち込み始めたとき、セレが何かを思い出したように声を上げた。 「一つだけ……君に、頼みたいことがある。どうしても君にしか頼めないことなんだ」  それを聞いて、諒太郎はすぐに顔を明るくした。セレの望みを叶えられる。たった一つだが、自分にしかできないことを。 「それってどんなこと?」  諒太郎は勢い込んで尋ねたが、セレの次の言葉は、すぐには信じられないものだった。 「僕の天青石を、君に譲りたいんだ」  セレは迷うことなく、はっきりとそう言った。そのあまりにもはっきりとした言い方に、諒太郎は戸惑う。 「……セレ? どうして天青石を手放してしまうの? あれはセレの宝物なのに……」  セレの顔をまっすぐに見つめるが、彼の表情には、迷いやためらいは一切見られなかった。 「……少し前までは、確かにそうだったよ。でも気づいたんだ。あれは僕が持っているべきものじゃないって。……覚えているかい? 僕が、あの石を砕きたくなることがあると言ったのを」 「覚えてる、けど……」  それは二人が初めてあの小さな店に行ったときのことだ。あのとき、セレは何かに思い悩んでいるような様子を見せた。そして彼は言った。『自分はときどき、この石を砕いてしまいたいと思うことがある』と。 「あのときは、どうしてそうしたくなるのか、自分でもはっきりとは分からなかった。少なくとも、欠けていくのが怖いわけではなかったんだよ。  ……でも、あるとき分かった。僕はあの石に嫉妬していたんだ。僕は身勝手で穢れた人間なのに、僕と同じ名前のあの石は、少しも穢れていない。それが悔しくて、疎ましくて、あの石を粉々にしてしまいたいと思ったんだ」 「……セレ……」  身勝手で穢れた人間。そんなことない、と諒太郎は叫びたかった。セレは優しい。そして、芯の強い、透き通った心を持っている。諒太郎はそう信じていた。  しかし、肝心のセレ自身が『自分は穢れている』と感じてしまったのなら、どんなに諒太郎が否定しても、彼のその気持ちは消えないだろう。  それと同時に、天青石を手放さないでほしいという願いも、セレ自身が手放すことを望んでいるなら、もう、意味がない。 「セレ。本当に、後悔しない?」  諒太郎はセレの願いを受け入れる覚悟を決め、もう一度その意思を確かめた。 「しないよ」  即座に、セレの答えが返ってくる。彼の瞳に揺らぎはない。  彼のはっきりとした答えを確かめると、諒太郎はもう少しだけ、あの石について話したいと思った。 「セレ。分かった。それが君の本当の願いなら、僕は天青石を受け取るよ。  ……でも、本当はちょっと惜しいと思う。僕は、あの石を初めて見せてもらったとき、セレの瞳にそっくりだと思ったんだ。あの青い石も、君の青い瞳も、僕はとても好きだよ。本当に、心から」 「……ありがとう」  セレは口元を緩め、小さく微笑む。諒太郎があの日感じたことは、今、きっと彼にも伝わったはずだ。  今のセレに、もう苦しそうな様子はない。  諒太郎に天青石を譲る。その願いさえ叶えば、彼が他に望むことはないのだろうか。あまりにも晴れ晴れとしたセレの表情が、諒太郎にとっては少し哀しかった。 「他にもない? 僕に出来ること」 「大丈夫、もう十分だ。君があの石を持っていてくれるだけで……僕はもう、十分だよ」  十分。その言葉に込められたセレのあきらめの感情が、諒太郎の胸を小さく刺す。セレが一番叶えてほしいことを知っているのに、自分はそれを叶えられないのだ。  ……本当に、叶えられないのだろうか?  諒太郎は自問した。しかし、答えが出なかった。  そもそも、恋をするということ自体が、今の諒太郎にはよく分からない。分からないのに恋人のふりなど頼めないと、セレは分かっていたのだろう。  諒太郎は、悔しいと思った。  自分は、セレよりもずっと子供だ。  当たり前のように『普通』の日々を生きてきて、それがどれほど恵まれていたのかなど考えたこともなかった。  そして、本当に大切な友達とやっと出会えたというのに、その友達のために、自分は何もすることが出来ない。  悔しくて、無力な自分に腹が立って、諒太郎は泣きそうになった。  いや、実際には泣いていたのかもしれない。セレが驚いてそばに寄り、「君のせいじゃない」と優しく背を撫でてくれたのだから。 「セレ、ごめんね……僕、何もできなくて……」  いつの間にか泣きじゃくっていた諒太郎は、途切れ途切れになりながら、何度もセレに謝った。その度にセレは、幼子をなだめるように優しく諒太郎を抱きしめる。 「いいんだよ、諒太郎。君が自分を責める必要なんてどこにもない。僕は君に感謝しているんだ。自分を大事に思ってくれる人がいると、こんなに温かい気持ちになれるんだって、僕は初めて知った。諒太郎が、この気持ちを教えてくれたんだ……」  セレの体は温かくて、諒太郎はこのままずっと離れたくないと思った。子供じみているかもしれないが、本当の気持ちだ。  ずっとセレと一緒にいたい。転校などせずに、いつまでも隣にいてくれたらいいと思う。六年生になって、中学生になって、高校生になって、それから後も、ずっと一緒に。  諒太郎が嗚咽の間にそう告げると、セレもまた少しだけ涙を浮かべて、「ありがとう」と言ってくれた。
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