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5-3.
放課後になるまで、二人はずっと木陰で過ごしていた。
雨はだんだんと弱くなっていく。だが、空気が冷たいことに変わりはなく、二人は自然と身を寄せ合い、手を繋いで互いの体を温めていた。
――――この時間がずっと続けばいいのに。
諒太郎の心に、再びそんな思いが浮かぶ。
しかし、実際にはそうもいかない。
諒太郎はセレから、転校までの時間があまりないことを聞かされた。
「昨日、母さんから伯母さんに連絡があったらしいんだ」
セレの瞳は、目の前の木々をまっすぐに捉えている。涙が引いた後の彼は、以前のような冷静な声音で、諒太郎に状況を話した。
「いよいよ会社は倒産になるらしい。まあ、今日まで持ちこたえたのが不思議なくらいだから、これは仕方ないと思う。問題は、借金がさらに膨らんでいることだ」
セレの話を聞きながら、諒太郎はわずかな疑問を抱いた。借金が膨らむのは大変なことかもしれないが、それとセレの転校がどう関係するのだろう。
諒太郎の疑問に、セレはあっさりとした口調で答えた。
「簡単なことさ。親戚に、小さな居酒屋をやっている人がいる。僕はたぶん、その人のところに行かされるんだ。そこで僕は居酒屋の手伝いをして、もらった小遣いを母親に送れと言われる。母は、それを借金返済の当てにするつもりなんだよ。ほんの気休めにしかならない額だけどね」
信じられないような話に、諒太郎は呆然としてしまった。
セレが母親からひどい仕打ちを受けていることを、諒太郎はさっき知ったばかりだ。自分の子供に、どうしてそんなひどいことができるのかと諒太郎は憤った。しかし、これはさらに度を超えている。
――――いくら借金の返済が大変だからって、これまで散々いじめてきたセレを、さらに苦しめるなんて!
諒太郎は、怒りで目の前が真っ赤になりそうだった。もしも目の前にセレの母親がいたら、思わず掴みかかっていたかもしれない。
だがもちろん、ここに彼の母親はいない。諒太郎はやり場のない両手をぎゅっと握り、セレの方を見た。
「セレのお母さんは、本当にひどい」
怒りを込めたその言葉に、セレは静かにうなずいた。セレは不思議と怒っているようには見えない。怒りを通り越して、もうあきらめているのだろうか。
「本当に、かわいそうな人だよ、あの人は。でも僕にも責任がないわけじゃない。母が苦しんでいる原因の一つは僕が作ったんだから、少しは出来ることをやらないといけないな」
なぜかしみじみとそう言うセレに、諒太郎は激しい感情を抑えられなかった。
「どうして? どうしてお母さんの言いなりにならないといけないの? セレは何も悪くないのに!」
セレの青い瞳が、諒太郎を静かに見ていた。怒りの感情を見せる彼を静かに見つめ、一体どういうことなのか、セレはうれしそうに微笑んでいる。
「セレ……?」
戸惑う諒太郎に、セレはもう一度、はっきりと笑ってみせた。
「君は不思議だな。普段はあんなに優しいのに、突然激しく怒り出したりする。僕の鞄を取り返してくれた日も、今みたいに怒ってくれていたのかい?」
急に半月前の話を出されて、諒太郎は一瞬言葉が出なかった。今はセレの母親の話をしていたはずだ。それなのに、セレは突然話題を変えてしまう。
ぽかんとしている諒太郎の顔を見て、セレはまたうれしそうに笑った。
「急に話を変えてごめん。僕はうれしかったんだよ。君が、僕のために怒ってくれていたから。あの日鞄を取り返してくれたのも、こんな風に僕のことを思ってくれていたからなのかと思ったら、つい聞いてみたくなった」
「そ、そういうことだったんだ……」
諒太郎は、セレが突然笑って話を変えた意味を理解した。理解したが、それでもやはり落ち着かない。
セレに喜んでもらえるのはうれしい。だが、うれしいという気持ちをうまく呑み込むことができないせいか、諒太郎は急に気恥ずかしくなってしまった。
「……言われてみれば、そうだったのかもしれない。セレの鞄のことを知ったとき、僕は急にかっとなっていたんだ。今まで、誰かに対してあんなに怒ることなんてなかったのに」
「それが諒太郎の優しさだよ」
セレは確信を持って言うが、諒太郎は自分でも信じられなかった。
「優しさ、なのかな」
「そうだよ。誰かが苦しめられているときに、その人のために怒って、行動する。それは、誰にでも出来ることじゃない。諒太郎は立派だよ」
セレは笑いを収めていたが、うれしそうな様子は変わらない。彼の素直な褒め言葉が、諒太郎にはまだ信じられなかった。
「立派……僕が……?」
「うん。間違いない」
セレがもう一度断言したことで、ようやく諒太郎に実感が湧いてくる。
自分は、誰かのために――――セレのために、行動できる優しさを持っている。
怒りの気持ちも、誰かの役に立っている。
それを実感することは、諒太郎に、今までなかなか持つことができなかった『確かな自信』を与えた。
諒太郎は握っていた拳を、ゆっくりと開く。
と同時に、張り詰めていた心がふっと緩んで、目の前の景色が違ったものに見えてきた。
訳もなく泣きそうになって、諒太郎は何度もまばたきをする。
目の前が、急に明るくなった気がした。
まだ雨は止んでいないのに、まるで、空が晴れ渡り、柔らかな日差しが心の奥まで優しく照らしているような――――
そんな気持ちになったとき、諒太郎は突然、胸がどくんと脈打ったのを感じた。
胸の中から熱い血がどっと溢れて、心臓の鼓動がどんどん速くなっていく。全速力で走り出したくなる衝動に、諒太郎は驚愕した。
まるで、自分という人間が、一瞬で生まれ変わってしまったかのような感覚だった。
指先に、手のひらに、両腕に、頭の先から爪先まですべての場所に、強い力がみなぎるのを感じる。どちらかといえば大人しい性格だったはずの自分に、今、信じられないほどの力が湧いてきていた。
一体どうしてなのだろうとセレの方を見つめると、彼は何もかも分かっているという顔で、諒太郎にこう告げた。
「自分に自信を持つ、というのは良いことだと思わないか。今まで無力だと思っていた『自分』に、こんなに力がみなぎるんだから」
その言葉を聞いて、諒太郎ははっと気づいた。
自分はずっとセレのようになりたいと思っていた。だが、セレと同じになる必要などなかったのだ。
自分には、自分なりの良いところがある。
諒太郎が気づいていなかったその『良いところ』を、セレが教えてくれた。そして、間違いなくそれは長所なのだという自信も持たせてくれた。
諒太郎はセレに感謝した。今、自分は『自信』を持った。
セレがいてくれたおかげだ。彼がいなかったら、いつまでも自分は、内向的で自信を持てないままだった。
諒太郎は彼に、もう何度目になるかわからない抱擁をした。
セレは少しだけ困ったように笑う。しかし、少なくとも悪い気持ちではないようだった。
二人は他の生徒たちが帰る時間までそうして過ごし、そして教室から鞄を持ってくると、まっすぐにセレの家を目指した。
諒太郎は、少しだけ緊張を感じ始めた。
セレの大切な宝物。
天青石を、譲り受けるのだ。
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