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1-1.
それは今よりもずっと前、店主が『諒太郎(りょうたろう)』という一人の少年だったときのこと。
九月の新学期。当時五年生だった諒太郎のクラスに、一人の転入生がやってきた。
セレ、と呼ばれたその少年は、目の色は青、肌の色は薄く、髪も色が抜けたように薄い色をしていた。
外国から来た子供だったのだろうか。その頃は外国の子供は珍しく、級友の誰もが好奇の目で彼を見ていた。
しかしセレは、人懐っこさなど少しも持っていない少年だった。
巣箱のような教室で三十九人の視線を浴びた少年は
「何か用?」
と言い、威圧するような目を向けたのである。
この一言だけで、級友たちはセレのことを「感じの悪いやつ」と判断したようだった。
休み時間になっても、セレに話しかけようとする者はいない。
諒太郎はそんなセレの様子を遠くの席から眺め、そうしてあることに気づいた。
(あの箱……何だろう。石が入っている……?)
休み時間になってすぐ、セレは机の上に小さな木箱を置いていた。
諒太郎の位置からではよく見えないが、中には小さな石がいくつか入っていて、ガラスの蓋がかけられているようだ。
(気になるな……話しかけてみようかな……)
諒太郎は普段自分から話しかけるほうではないが、石のことには興味が湧いた。日頃から、河原にあるきれいな石を集めるのが好きだったのである。
「ねえ……セレ、君」
たどたどしい言葉で話しかけた諒太郎は、こちらに視線を向けたセレの目に驚いた。
威圧的な視線が怖かったからではない。その瞳が、あまりに美しかったからだ。
(きれい、だなあ……)
遠目に見たときには単に青い目としか思わなかったが、近くで見るとその瞳は空色のようでもあり、夜空の紺碧のようでもあった。諒太郎はしばらくの間セレの瞳に見入り、次の言葉をかけるのを忘れていた。
「何か、用なの?」
先ほど級友たちに向けていたものよりも、いくらか柔らかい声だった。
セレに声をかけられ、諒太郎ははっと我に返る。見とれていた自分を恥ずかしく思いながら、小さな木箱のほうを示した。
「その箱のことが気になって……僕は、石を集めるのが好きなんだけど、君もそうなの?」
「そうだけど」
セレは素っ気なく答える。
「その箱の中、見てもいい?」
「……少しなら」
セレは木箱を少しだけ傾けて、諒太郎のほうへと向けた。中には、青い石ばかりが五、六個入っている。どれも形が不揃いで、よく見ると色味も少しずつ違う。木箱の中には綿のような白い布が敷かれ、この石がとても大事にされていることが伺えた。
「ありがとう」
諒太郎は少しの間眺めると、礼を言って体勢を戻した。知らず知らずのうちに、体が前のめりになっていたようだった。
「もういいの」
「うん。見せてくれてありがとう。どれもすごくきれいな石だね」
セレはきっと、これ以上余計な会話をすることを望まないだろう。
諒太郎は礼を言った後、すぐに自分の席に戻ろうとした。そのときだった。
「君は、余計なことを言わないんだね」
険のない静かな声が、セレの口からぽつりとこぼれた。
「余計なこと?」
そう聞き返してから、諒太郎はまだ自分が名前を言っていなかったことに気づいた。
「ごめん。僕の名前は諒太郎っていうんだ。呼び捨てでいいよ」
諒太郎がやっと名乗ると、セレは無表情のまま「そういう意味じゃない」とだけ言って、黙ってしまった。
諒太郎はその言葉の意味が気になったが、休み時間の終わりを告げるチャイムの音が聞こえ、結局何も聞かずに席に戻った。
*
次の日の放課後、諒太郎は一人で近くの河原へとやって来ていた。
今日もまた、ここできれいな石を探そうと思っていたのだ。
諒太郎の『石探し』に理解を示してくれる人は、今のところ誰もいない。せっかく見つけた石を持って帰っても、家族からは迷惑がられ、友達からは不思議がられる。そこで諒太郎は、いつも一人で石探しをすることにしていた。誰に理解されなくても構わない。たった一つの特別な石を、自分自身の手のひらに乗せる特別な感覚。それを味わうことが、諒太郎にとって何よりも大事なことだったのだ。
九月に入り、日の入りは少しずつ早くなってきている。諒太郎が石探しに没頭していると、ふいに頭上から声がかかった。
「そこで何をしているの」
顔を上げると、橋の上にセレが立っていた。
「河原にあるきれいな石を探しているんだけど……君のほうは?」
セレは昨日も今日も、放課後になるとすぐに教室を出て行ってしまった。まっすぐ家に帰ったのかと思っていたが、違ったのだろうか。
「これから帰るところだよ」
セレはいつも通りの素っ気なさでそう言い、橋の上を歩き出した。しかし、その素っ気なさの中にわずかな苛立ちや悲しみがこもっているのを感じた諒太郎は、ついセレのことを呼び止めてしまった。
「何」
昨日と同じ、美しい青の瞳がこちらに向けられる。
「何か、あったの? 僕で良ければ、話を聞くけど」
変にごまかすより、正直にものを言った方が良いだろうと、諒太郎は自分からそう言った。
「それを聞いてどうするのさ」
一瞬垣間見えたはずのセレの感情は、その一言を機に奥へと隠れてしまう。
教室にいたときと同じ威圧的な態度が表に出てきて、諒太郎は少し怯みながらも、勇気を出して一歩を踏み出した。橋の上にいるセレに、ほんの少しでも近づくために。
「君はまだ転校してきたばかりだから、話が出来る相手も少ないかと思って」
いない、ではなく、少ない、と言ったのは諒太郎なりに気を遣ってのことだった。しかしセレは一瞬むっとしたような表情になって走り出し、諒太郎のいる河原へと下りてきた。
「昨日は余計なことを言わなかったくせに、今日はずいぶんと世話焼きなふりをするんだな」
セレが怒っているのは明らかで、その顔を見た途端、諒太郎は後ずさりしたいような気持ちになった。だが、自分の言ったことで怒らせてしまったのに後ずさりするのも良くないだろう。それは、セレをますます怒らせるだけだ。
「ごめん。話したくないなら、何も話さなくていいから」
「当たり前だ。誰が君なんかに、本当のことを話すものか」
セレは一息に言いたいことを言い切ったようで、その言葉を最後に再び橋の上へと戻っていった。
土手を駆け上がるセレの背中に学校鞄がないことに気づいたのは、彼が橋の向こうに消えていった後のことだった。
*
次の日の朝、諒太郎は誰よりも早く学校に来てセレのことを待っていた。
(昨日のこと、謝らなきゃ……僕が余計なことを言ったせいで、セレはもっと傷ついたに違いない)
本当に何もないのならば、あのときあの場所にセレがいたはずがないのだ。
セレは、自分の身に起きた何事かによって、誰かにわかってほしい気持ちと、誰にもわかってもらいたくない気持ちの狭間にいたのだろう。
その難しい気持ちの揺れ動きを、諒太郎の一言が変えてしまった。
あの瞬間、彼の気持ちは、『誰にもわかってもらいたくない』ほうへと一気に傾いてしまったに違いない。
その傾きを、何とか元に戻さなければ。
(でも、一体どうすればいいんだろう)
諒太郎は誰もいない教室の中、ひとり席に着いて考えていた。
セレに話しかけるときには、言葉の一つ一つ、その言い方の調子にまで気をつけなければならない。
どんな言葉を、どんな調子で投げかければ彼の心に届くのだろうかと、諒太郎はずっと考え続けていた。
やがて一人の時間は過ぎ、予鈴が鳴るころには、級友たちが皆教室の中に集まっていた。ただ一人だけを除いて。
「今日は、セレ君はお休みだと連絡がありました」
担任の教師は短くそう告げると、いつもと同じように朝の連絡事項を読み上げていく。
諒太郎は配られたばかりのわら半紙に目を落としながら、半ば呆然とした気持ちでいた。
(セレが……休み?)
彼の性格ならば、学校を休むのは逃げるのと同じだと思って、何があっても必ず学校には来るだろうと思っていた。しかし、諒太郎のその推測は間違っていたのだろうか。
それとも、あの気丈な彼でさえ学校を休みたいと思うくらい、諒太郎の言葉は彼を傷つけてしまったのだろうか。
諒太郎の耳に教師の声はほとんど届かず、ただ頭の中には、昨日のセレの表情ばかりが浮かんでいた。
*
学校が終わると、諒太郎は途端に手持ち無沙汰になってしまった。
昨日の夜は、『セレに謝らなければ』ということしか考えられなかった。だから今日、誰よりも早く学校へとやってきたのだ。
それなのにセレは休みで、その理由もよく分からないまま一日が終わってしまう。
諒太郎は鞄を背負って教室を出たものの、なんとなく行き場がないように感じて立ち止まった。
廊下にはまだたくさんの生徒がいる。鞄を背負って昇降口に向かう生徒が大半だが、廊下に留まって立ち話をしている生徒も少なくなかった。
その立ち話をしている生徒の中に知った顔を見つけ、諒太郎は少し嫌な気持ちになった。
「なあ、今日もいつものとこ行くだろ?」
「ああ、もちろん」
そう言ってにやにやと笑っているのは、諒太郎と同じクラスの羽島(はしま)と長城(ながしろ)だ。諒太郎はこの二人のことが好きではない。何年も前から同じクラスだが、心底意地が悪くて、諒太郎のことをからかったり、笑いものにしたりする。河原で石を集めているところを見られて、せっかく集めた石を目の前で捨てられたこともあった。
(あんな二人のことは忘れよう)
この意地悪な二人は、なぜか教師に叱られることがほとんどない。いつも好き勝手なことをしているのに、教師の前では至極まっとうな顔をしているのだ。
諒太郎は足早に二人の横を通り過ぎようとした。
そのとき、ちょうど二人が下卑た声で笑った。
「そういえば今日、セレのやつ学校に来なかったな」
「昨日は澄ました顔してやがったけど、今頃、家の中でわんわん泣いてるんじゃねえの?」
「きっとそうだ」
そう言ってまた二人は笑った。聞いているだけで腹の底がむかむかするような、嫌な笑い方だった。
「ねえ」
諒太郎は思わず立ち止まり、二人に声をかけていた。羽島と長城は何だとばかりに諒太郎に目を向ける。
「昨日、セレに何をしたの?」
諒太郎は、顔も見たくないほど嫌なはずの相手に相対していた。いつもの彼よりもきっぱりとした言い方で、暗に二人を責め立てる。
「何って、お前には関係な……」
「いいから早く教えて」
羽島の言葉を遮り、諒太郎は二人をきっとにらみつける。長城は露骨に嫌そうな視線を向け、チッと舌打ちをした。
「何だよ石頭。あいつの石を捨てようが何しようが、オレたちの勝手だろ」
石頭、というのはこの二人が諒太郎につけたあだ名だった。相変わらず人を馬鹿にするような物言いばかりする長城に、諒太郎は苛立つ。
「文句があるなら、お前の大事な石もまた捨てちまうぞ。それでもいいのか?」
羽島が追い打ちをかけるようにそう言って、またにやにやと笑った。この脅し文句を言えば、諒太郎は途端に怯えて引き下がると分かっているのだ。
実際、数日前まではそうだった。大事な石をまた捨てられてしまうのが怖くて、この二人に何も言えなかった。
しかし、今日の諒太郎は違っていた。
「捨てたいなら捨てて良いよ。それより、セレの石はどこに捨てたの?」
「ああ? 何だよ石頭」
「……どこに捨てたかって聞いてるんだよ!!」
諒太郎の突然の大声に、廊下にいた生徒たちが一斉に振り返る。諒太郎は、表情こそ冷静だったが、目の前の二人に対して尋常でない怒りを感じていた。その怒りが、今まさに沸騰する。
「どうして捨てたんだ、セレの石を! あれは大事なものなんだ、それくらい分かるだろう、石頭! そうだ、石頭はお前たちだ、すぐに拾ってこい、昨日捨てた石を!!」
怒りに駆られてまくし立てる諒太郎を、羽島と長城は意味が分からないとばかりに見つめていた。そんな二人の態度にますます腹が立った諒太郎は、さらに叫ぼうとしたが――――
「君たち、何を騒いでいるんだ!」
それよりも、教師に見つかる方が早かった。
廊下の奥から現れた担任の教師は、三人の顔を見やり、それから改めて諒太郎の方を見た。
「さっき大声を上げていたのは君だね?」
「そうです。こいつが、いきなり大声で怒鳴り始めたんです」
長城がもっともらしい顔で言う。
「オレたち何もしてないのに、いきなりですよ」
羽島もまた、急に真面目な生徒のようなふりをしてそう言った。
教師はいつもかけている眼鏡を指先でぐっと押し上げてから、諒太郎の顔をまっすぐに見る。
「君、廊下では静かにしなさい。むやみに大声を上げたり、クラスメイトを脅かしたりしてはいけませんよ」
この言葉を聞いている間に、諒太郎の怒りはすっかり冷めてしまった。怒りが収まったわけではない。失望したのだ。諒太郎が怒る理由を理解しない教師に。
この教師は、転校生が突然学校を休んだことをおかしいと思わないのだろうか。二人の生徒が悪事を働いていることも、そのことに泣き寝入りしている生徒がいることにも気がつかないのだろうか。
憤ったところでどうにもならない。現に、目の前の教師はそのことを理解していないのだから。
「そうですか。すみませんでした。次からは気をつけます」
諒太郎は無表情でそう言うと、三人に背を向けて昇降口へと歩き出した。教師はまだ何か言いたそうにしていたが、何を言われても絶対に振り返らないぞと腹をくくり、諒太郎は胸をそらして廊下を歩いた。そうしなければ、自分の中の小さな自分が、怯えて泣き出してしまいそうだったからだ。
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