1-2.

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1-2.

 昇降口から外に出た諒太郎は、これからどうすればいいのかと悩んでしまった。  結局、セレの石のありかは聞き出せなかった。できれば拾って返したかったが、今の諒太郎にはその場所を探す手がかりもない。  悩みながら歩いていると、諒太郎がいつも石探しをしているあの河原へと差し掛かった。 (セレ……)  昨日セレがいた橋の上を、諒太郎は今、一人で渡っている。  セレは今、どんな気持ちでいるだろうか。  諒太郎には、セレの心のすべてを想像することはできない。しかし、彼のために何かをしたいという思いはあった。 「やっぱり、僕が見つけなきゃ」  諒太郎は自分にそう宣言すると、橋を引き返して河原へと下りた。  そして、そのまま川の上流の方へと歩いていった。  いつも諒太郎が石探しをしている辺りよりも上流には、上級生たちの遊び場がある。あまり素行の良くない上級生ばかりが集まる場所で、羽島と長城もときどきそこにいるらしいと噂されていた。  諒太郎は川の流れと反対に歩き続け、やがて上流にある別の橋の近くまでやってきた。  夕刻の少し赤みがかった日差しの中で、数人の上級生が笑いながら何かをしている。  石蹴りか何かだろうか。やっていることは子供らしい単純な遊びなのに、やっている人間の心根の悪さが透けて見えるような、すっとしない光景だった。何か手がかりはないだろうかと思ってやってきたが、遊んでいる少年たちの中に知った顔はなかった。 (どうしよう……別の場所を探す? でも、どこを探したらいいんだろう……)  思い悩む諒太郎をよそに、上級生たちは裏返ったような高い声で笑っている。石を蹴るザッ、ザッ、という音さえ耳障りで、諒太郎は彼等の背中を思わずにらんだ。  その次の瞬間。  諒太郎の目は、上級生たちの足元に釘付けになった。  彼らの足元には、教科書やノート、筆記用具などがバラバラになって落ちていた。彼らが夢中で蹴っているのは河原の石ころだが、その途中で教科書などを踏みつけていくことに何の罪悪感も感じていないらしい。  さらに諒太郎は、その教科書が自分たちのクラスで使われているものと同じであることに気がついた。その瞬間、諒太郎は震えた。  あの場所に転がっているノートも教科書も筆記用具も、すべてがセレのものに違いない。諒太郎は昨日の夕方、鞄も持たずに橋の上にいたセレの姿を思い出した。  目をこらせば、無造作に生えた草の影に茶色の鞄らしきものも見つけることが出来た。そして、セレが大事そうに持っていた、あの小さな木箱も。ガラスの蓋は割れ、中身はもうとっくに捨てられているのだろう。  諒太郎は固く拳を握りしめた。心の中で、覚悟を決める。  あの素行の悪い上級生たちの前に行けば、何をされるかわからない。殴られる程度では済まないだろう。もっと恐ろしいことをされるかもしれない。あるいは陰湿な嫌がらせの日々がいつまでも続くことになるかもしれない。  それでも諒太郎は行かなければならないと思った。  そうしなければ、セレのあの瞳と本当の意味で向かい合うことはできないと感じていたのだ。 * 「セレ。お友達が来ているわよ」  階下から聞こえる伯母の声に、セレは倦んだ目をして起き上がった。  部屋の中は暗い。閉じたカーテンの隙間からわずかに月明かりが差し込み、セレはいつの間にか夜になっていたことを知る。  彼はそのままベッドの上に座り込み、動こうとはしなかった。  自分に友達などいない。  友達だなどと言って平気な顔でやってくる人間は、ろくなものではない。  昨日、自分の鞄を奪い取って、河原に捨てた連中だろうか。  わざわざ家まで突き止めて乗り込んでくる腐りきった性根には、恐れを通り越してむしろあきれてしまう。他に、やりたいと思うこと、見たいと思うものはないのだろうか。  セレはベッドから下りて、机の引き出しを開けようとした。  こんな気分の時には、『あの石』を見て心を落ち着けたかった。  この月明かりの下に置いたなら、きっとあの石は美しく輝く姿を見せてくれるだろう。  だが、階段を上がる伯母の足音を聞いて、それは断念せざるを得なかった。 「セレ。お友達が来ていると言ったでしょう」  伯母が扉を開け、部屋の中に入ってくる。セレは引き出しから手を離すと、何でもないような顔をして伯母に向き合った。 「うん。聞こえていたよ」 「それなら、早く下りてらっしゃい。お友達が、玄関でずっと待っているのよ」 「お友達、ね……」  セレはその言葉を嘲笑うようにつぶやき、伯母と共に階段を下りた。  友達だと言って玄関に居座る厚顔無恥な人間に、どんな言葉を浴びせてやろうか。  セレの中にそんな気持ちが生まれた頃、前を歩いていた伯母が急に振り返った。 「セレ。早く行ってあげなさい」 「え……?」  伯母はそこで立ち止まり、それ以上前に進もうとしない。玄関まで、あと少しという距離だ。しかし伯母は詳しい説明もなく道を譲り、セレに先に進むよう促した。 (伯母さんまで。どうして)  まさか自分に、本当に友達ができたとでも思っているのだろうか。そんなことはありえないと、伯母なら理解していると思っていたのに。  セレは不信感と、裏切られたような気持ちを抱えながら、玄関へと歩を進めた。  歩いているうちに、玄関先に誰かが立っているのが見えてくる。  だがそれは、『誰か』ではなかった。  セレが知っている人物だったのだ。 「諒太郎……」  そうつぶやいてみて始めて、セレは諒太郎の名前を覚えている自分に気がついた。  昨日河原で言葉を交わしたこと、一昨日、転校してきたばかりの自分に話しかけてきたことなどは覚えている。だが、名前を覚える必要のある相手だとは思わなかった。  だから、一昨日諒太郎が名乗ったときにも聞き流していたつもりだった。  それなのにどうして、自分は彼の名前を覚えていたのだろう。  その疑問の答えは、諒太郎のほうが持っているように思えた。 「僕の名前……覚えていてくれたんだ。ありがとう」  諒太郎はそう言って小さく笑う。その顔には土埃がつき、あちこち傷だらけだった。服もボロボロで、手足にはたくさんのあざや擦り傷が出来ている。  何があったのか、何をされたのか、セレにはすぐに想像がついた。 「君、どうしてそんな……」  諒太郎はあの学校での暴力の対象にはされていないと思っていたが、違ったのだろうか。戸惑うセレに、諒太郎は曇りの無い晴れやかな表情で答えた。 「だって、取り返したかったから」 「何を?」 「これを」  諒太郎の手には茶色の鞄が握られていた。  セレは一瞬震えた。  それは昨日の夕方、同級生の手によって奪われ、上級生も含めた数人によって捨てられたはずの鞄だった。 「どうして君がそれを……」  もうそれを聞く必要などない。わかっているはずなのに、セレの口からはその問いが漏れた。  あるわけがない。そんなこと。自分の体をボロボロにしてまで、誰かのために何かをするなんて。そんな人間、いるはずがない。  しかし、セレのそれまでの思い込みを遙かに超えて、今諒太郎は目の前にいる。ありえないと思っていた出来事は、今まさに現実のものとなっていた。 「もう一度君に会って、ちゃんと話がしたかったんだ。誤解されないように、ちゃんと、僕の思っていることを伝えたかった。でも今のままじゃきっとうまくいかないから、どうすればきちんと君と話せるかなって思って……そうしたら、まずこの鞄を取り返さないといけない、って思ったんだ」  諒太郎の話を聞きながら、セレは自分の体から力が抜けていくのを感じていた。  こんなことはありえない。でも、確かに今起きている。こんなに優しい人、自分のために何かをしてくれる人が、この世に存在している。そのことを今、自分は実感させられている……  セレはその衝撃の大きさに耐えきれず、とうとう床の上に膝をついてしまった。驚いた諒太郎がすぐにそばに寄る。 「セレ? 大丈夫!?」  諒太郎の手が自分の肩に置かれて、セレはその手の温かさにも衝撃を受けた。こんなに温かい手に触れられるのは、久しぶりのことだった。 「……呼び捨てにしてほしいなんて、言ってない」  セレの口からは、最後の抵抗とばかりに諒太郎を拒むような言葉が出てくる。しかし、それが無意味な行為であることに、もうセレ自身も気づいていた。 「ごめん。でも、体のほうは大丈夫? どこか痛むの?」  諒太郎はセレに言われたことを気にする様子も無く、ただただセレ自身のことを気遣っている。セレを立ち上がらせようと伸ばされたその両腕を、もうセレは拒むことができなかった。  諒太郎の優しさは本物だ。彼の中には、本当に相手のことを思っているからこそ生まれる優しさが存在している。今この腕を拒んでしまったら、自分は、心の奥底で願っていた本当の理解者との出会いを失ってしまうだろう。  セレは意を決して自分から手を伸ばした。諒太郎の手をしっかりと握り、彼に支えられながらゆっくりと立ち上がった。そのとき、支え合った彼の両腕から、揺るぎない優しさや偽りの無い真心が自分の中に流れ込んでくるような気がした。  胸の中が、温かくなる。目が開いている間ずっと感じているはずのあの冷たい諦観が、突然遠いものとなった。  セレは、空のような瞳を瞬かせた。  自分の中で、凍らせていたはずの感情がよみがえってくる。  セレは先ほどよりも幾分和らいだ表情になって、諒太郎のほうを見た。 「体のほうは大丈夫。それより、さっきはごめん」 「え?」 「呼び捨てにしてほしいなんて言ってない、って話のこと」 「あ……それは……」 「呼び捨てで、いいよ」  目をそらそうとしている諒太郎に、セレは優しく語りかけた。 「いいや、呼び捨てにしてくれたほうがいいんだ」 「……いいの?」  諒太郎がおそるおそるといった様子で聞き返す。 「うん。そうでないと、君と、対等に話せないじゃないか。……その代わり、僕も君のことを呼び捨てにするけど構わないか」 「それはもちろん。僕も、その方がうれしいよ」  その言葉を聞くと、セレの表情に笑みがこぼれた。  空の色のような青い瞳で彼が笑うと、世界中のどこにもないような美しい景色が広がっていく。  諒太郎の顔にも笑みが浮かび、二人は自然と笑い合っていた。 「よかった。セレに、余計なことをするなって言われたら、どうしようかと思っていたんだ」 「……」  セレは一瞬横を向きかけたが、それではいけないと思い直し、もう一度諒太郎の方を見た。 「昨日も一昨日も、君に素っ気ない態度ばかり取ってしまってすまなかった。もしも聞いてくれるなら、僕の考えていることを話したいと思うけど……いいかい?」 「うん。もちろん」  諒太郎はためらうことなくうなずいてくれた。そんな彼を自分の部屋に招き入れ、セレは話を始めた。彼は長い間心の中に隠していた感情を、初めて、この優しい友人の前で打ち明けていた。
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