3人が本棚に入れています
本棚に追加
2-1.
次の朝。諒太郎は体中が痛むのも構わず、いつも通りの時間に起き出した。
体の調子とは反対に、心の中はとても清々しかった。
セレが自分に心を開いてくれたことが、何よりもうれしかった。
諒太郎は窓の外に広がる空を見上げると大きく深呼吸し、学校へ向かう準備をする。今日は、通学路の途中でセレと待ち合わせをして、一緒に学校へ行くと約束しているのだ。
母親が学校を休みなさいと言うのを笑顔で断り、諒太郎はいつもより早めに家を出た。
そして家の門を出てから、諒太郎は思い出す。
(そういえば、お母さんにお礼言うの忘れちゃってたな。昨日、セレの家を教えてくれたときにも、何も言わずに出てきちゃったし……)
昨日諒太郎がセレの家を知ることができたのは、母のおかげだった。最近青い目をした男の子が引っ越してきた家があると、母は近所の噂で耳にしていたらしい。その話を聞いていなければ、諒太郎はせっかく鞄を取り返してもセレに会えないままだったかもしれない。
(今日帰ったら、ちゃんと「ありがとう」って言おう)
諒太郎はそう考えながら、見慣れた通学路の角を曲がった。
この角を曲がって少し歩いたところに、急な上り坂につながる小道がある。セレとは、そこで会う約束をしていた。
「セレ!」
セレの姿が遠くに見えたときから、諒太郎はもう走り出していた。動く度に体中が痛むが、そんなことは気にならなかった。
晴れ渡った青い空の下、小道の脇の電柱にもたれかかるようにしてセレが立っていた。昨日諒太郎が渡したあの鞄を抱え、青い瞳が空を見ている。
「セレ! おはよう!」
諒太郎が近くで声をかけたことで、ようやく彼は諒太郎の存在に気づいたようだった。
「おはよう……諒太郎」
セレは『おはよう』と発音することに慣れていないかのように、少したどたどしい声で応えた。
その一言から、セレが前の学校でも他の生徒とうまくいっていなかったことが察せられた。諒太郎は彼の心の内を思うと少し胸が痛む。しかし、そんなことは顔には出さず、今はセレに会えてうれしいのだということだけを考えて微笑んだ。
「こんな風に誰かと待ち合わせして学校に行くの、初めてなんだ。早く行こう!」
諒太郎はセレに目で合図して、学校に向かって走り出そうとした。
しかし、セレは動こうとしない。
「本当に、行く気なのかい? ……あの学校に?」
「え? そう、だけど……」
学校に行く気などまるでないといった様子のセレに、諒太郎は一瞬戸惑う。
「行ったら、どんな目に遭わされるか分からないよ」
「それは、……そうだけど……」
急に突きつけられた現実に、諒太郎は背中が冷たくなった。
確かに、セレの言うとおりだった。昨日諒太郎は上級生たちにひどい目に遭わされながらも、なんとか鞄を取り返してきた。しかし、彼らは昨日の出来事をどう思っただろう。諒太郎のことを生意気だと思い、もっとひどい目に遭わせるつもりでいるかもしれない。それに、羽島や長城との一件も解決していなかった。教師は諒太郎のほうが悪いと思っているようだったから、今日もとがめられるのは諒太郎だけかもしれない。
セレに会えてうれしい気持ちから一転、急に厳しい現実へと目を向けさせられ、諒太郎はうつむいてしまった。突然、目の前の景色が暗くなって見えた。今の状況が恐ろしくなるが、セレの前では泣き出さないようにと、諒太郎は必死に堪える。
セレはそんな諒太郎の様子を何も言わずに見ていた。そして、ゆっくりと諒太郎の隣へ歩き、彼の右腕を優しく引く。
「諒太郎。行こうか」
「……学校に?」
腕を取られたことに驚きながら、諒太郎は涙混じりの顔でセレを見た。
「違うよ。もっと良いところだ。僕が知っている、とっておきの……君にも、教えたいんだ」
そう言うとセレは、諒太郎の腕を引きながら歩き出そうとした。しかし途中で何かを思い出したらしく、一度立ち止まると諒太郎の顔を見て問いかけた。
「学校を休むことになるけど、一緒に来てくれるかい?」
「うん……もちろん」
諒太郎は小さくうなずいた。自分から誘ってくれたセレの気持ちを拒みたくなかった。それに、セレのこの提案は、今の自分たちにとって一番良い選択のように感じられたのだ。
二人は並んで立つと、学校とは別の方向へと歩き出した。セレが案内する方向には、長い上り坂がある。少し急なその坂の上には晴れ渡った青い空があって、二人は互いに手を取り合いながら、坂の上を目指して上っていった。
*
セレが教えてくれた場所は、坂を上り切ってからさらに木立の中を二十分ほど歩いた場所にある小さな店だった。
セレの話によると、そこは木々の中に埋もれた一軒家に見えるが、実際には住宅を兼ねた店舗になっているらしい。諒太郎の腰くらいまでしかないさび付いた門を開けると、林の続きのような庭が広がっていた。
「店の入り口は左の扉なんだ」
セレはそう言って、慣れた様子で庭の中へと歩いて行く。諒太郎は勝手に入っていいのかどうか少し迷ったが、セレの背中がどんどん遠くなっていくのを見て慌てて追いかけていった。
店の庭は広く、林の中にあったものと同じような植物がそれぞれ好きなように枝葉を伸ばしている。手入れらしい手入れはせず、自然に伸びてきた植物をそのままにしているのかもしれない。唯一手を加えられているのは店へ続く道で、土がむき出しになってはいるが、そこには草一本も生えてはいなかった。
諒太郎は家の右側にある扉も気になったが、そちらへ続く道はあまり手入れされておらず、踏み固められた土の上には草が伸びてくるまま放置されていた。
「諒太郎。店はこっちだ」
セレは一度立ち止まると、振り返って諒太郎に呼びかけた。しかし諒太郎はなぜか右の扉ばかりが気になって、先に進む気になれない。
「セレ。あの家には、どんな人が住んでいるの?」
「ここの店主だよ。一人だけで住んでいるらしい」
「歳は何歳くらい? 優しそうな人?」
「少し偏屈な人だと思うよ。少なくとも僕と同じくらいには。歳はわからない。最初は年を取っているのかと思ったけど……案外、まだ若いのかもしれない。少なくとも僕たちよりは大人だよ」
二人が立ち止まって話していると、右側の扉が急に開き、中から一人の男性が出てきた。セレの言ったとおり、遠目に見るとまるで年取った人のようだ。しかし、よく見れば腕まくりしたシャツの下には筋肉のついた腕があり、足取りは力強く背筋もしゃんと伸びている。諒太郎はその男性のことをまじまじと見つめていた。学校の先生や家族、近所の大人たちとはどこか違う。何歳なのかもわからない独特の雰囲気をまとった男性は、それだけでとても興味深い。
「諒太郎は変わっているな。店よりも店主の方に興味があるのか」
「そうかもしれない」
セレの言葉はもしかしたら皮肉なのかもしれないが、諒太郎はあまり気にならなかった。むしろ、彼に変わっていると言われると、褒められているような気さえしてくる。彼が興味深いと感じる対象になっていることがうれしくて、諒太郎は内心密かに喜んでいた。
「セレじゃないか」
店主がこちらに気づいて話しかけてくる。
「学校はどうした」
学校。その言葉を聞いて、諒太郎は一瞬びくりとする。自分たちが勝手に学校を休んでしまったことを思い出したのだ。
「そんなこと、どうだっていいよ」
セレは少しの動揺も見せずにそう言う。店主とはすでに顔見知りのようだった。
「そうか。店は開けてあるから、好きに見ていくといい。私は少し出かけてくる」
「行ってらっしゃい」
セレが軽い調子でそう言うと、店主はすぐに庭の外へ続く道を歩いて行った。店主のはずなのに、店の方を気にする様子はない。
「僕たちも行こうか」
セレに促され、諒太郎は左の扉のほうへと向かった。自然と早足になるセレを慌てて追いかけ、古い木の扉を開けた。中に入ると、木材だけではなく、古い紙や、布や、石材のようなものの匂いが感じられる。
諒太郎はなぜか懐かしいような気持ちになって、店の中を見渡した。きっとこの店には、諒太郎が自分の部屋で集めているのと同じようなものがたくさんあるのだろう。他人から見ればただのがらくた、けれども自分にとってはかけがえのない宝物。そういったものたちだ。
店の中には棚や机がいくつも置かれ、さらに床の上にまで多くの物が置かれている。店というより、あの店主の蒐集部屋なのだろう。
セレはすでに勝手知ったる様子で、入り口付近の棚の引き出しを開けていた。
「諒太郎が欲しがるのは、こういう石かい?」
セレは引き出しに収まっていた石を一つ手に取り、諒太郎のほうへかざして見せた。
「確かに、僕が集めてるのはそういう石だけど……」
諒太郎はセレの開けた引き出しのほうへと近づいた。文具店で画用紙を入れているような引き出しに、ごつごつとした無骨な石がびっしりと並べられている。諒太郎から見れば宝の山のような引き出しだ。だが、夢中で中を覗きたい気持ちを抑えて、諒太郎はセレを見た。
「セレは、この店でどんな石を見てるの? 僕はそっちのほうが気になるよ」
セレは一瞬少し驚いたような顔をして、それからふっと小さく笑った。引き出しを元の状態に戻すと、諒太郎の顔を見て小さくつぶやく。
「やっぱり諒太郎と一緒に来て良かった」
「え?」
その言葉が小さく早口だったこともあって、諒太郎は思わず聞き返してしまった。
「深い意味はないよ」
セレはその一言で諒太郎の追及をかわし、別の通路へと移動した。店の中はとても狭く、はっきりと言ってしまえば通路らしい通路など存在しない。棚や机の間に体を滑り込ませ、通れそうなところを通っていくのである。
セレは猫のようなしなやかさで棚の横を通り抜け、店の奥にある大きなガラス棚のほうへと向かった。こんなに乱雑な店だというのに、そのガラス棚の前だけは、余計なものが置かれていない。
その上、棚の前面にはめ込まれたガラスは信じられないほどきれいに磨かれていた。他の棚は埃だらけでガラスも曇っていたが、店主はこの棚だけ特別に手入れしているのだろうか。
「セレ……この棚は?」
「ここの店主のとっておきだよ」
それは見た目だけでも推測できる。だが、推測ではない本当のところを、セレはなかなか話してくれなかった。もったいつけるようにゆっくりと棚へと手を伸ばし、ガラスの扉を開こうとした。だが、扉には鍵がかかっていて開かない。するとセレは、慣れた手つきで扉の下の小さな引き出しを開けた。そこに鍵がしまってあるのだ。
セレの細い指先が、引き出しの中の鍵をつまみ上げる。セレや諒太郎から見ても小さい、古びた青色の鍵だ。
セレはその小さな鍵を、同じくとても小さな鍵穴へ差し込んだ。カチャリ、と鍵が開く音がする。その音さえ、耳を澄まさないと聞こえないような小さな音だった。
「おもしろい見世物だろう」
セレは笑うことなくつぶやいた。
「見世物なんて。あの人の大事な棚なのに」
諒太郎の言葉に、セレは少しだけ口元を緩める。
「大事は大事だろうけど、この中にあるものは全部売り物だよ。僕が初めてこの店に来た時にも、あの人は『見たいなら自分で鍵を開けて、勝手に見ろ』って言ったんだ。変な店だと思わないか」
「僕は……思わない、かな……」
諒太郎は不思議とそうつぶやいていた。セレと仲良くなりたいという気持ちから、できるだけ彼の考えに同意するように心がけていたつもりだったが、なぜか今この瞬間には、セレよりもあの店主の考えに同意したいと思った。
「……他の人から見たら変なのかもしれないけど、僕はあの人の考えていることも変じゃないと思う」
こんなことを言ったら、セレに失望の目で見られるかもしれない。そんな小さな恐れを抱きながら、諒太郎は自分の考えを小さく述べた。そして、言い終わると同時にセレの顔をじっと見つめる。彼は、自分の意見に賛成しなかった諒太郎に不満を抱くだろうか。
「そんなに僕の顔を見てどうしたんだい」
セレは何も感じていないのか、不思議そうに諒太郎を見つめ返した。
「……えっと、セレが、怒ったかなって思って……」
諒太郎は急に気まずさを感じ、小声で答えた。何も気にしていないセレに対して、余計なことばかり気にしている自分が恥ずかしい。
「怒らないよ、こんなことで」
「でも」
「君は、僕が何かのことで違う意見を言ったとしても怒らないだろう? だから僕も、こんなことで怒ったり拗ねたりしない」
「……それじゃあ、もしも僕が、『こんなこと』で怒り出したりしたら、セレも怒るの?」
「君はそんなことしないだろう」
「そう、だといいけど」
「そんなことより、早く棚の中を見よう。僕の見たいような石が入っているのは、この棚だけなんだ」
「この棚、だけ?」
セレはまたも、もったいつけるようにゆっくりと扉を開いた。いや、もったいつけているのではない。きっと、彼自身もこの扉を開くことをもったいないと感じているのだ。おそらくめったに開けられることのないこの扉。それを、軽率に開け放ってはいけない。ゆっくりと、まるで何かの儀式を執り行うかのように、この扉は丁重に扱わなければいけないものだ。
たっぷりと時間をかけて、セレはガラスの扉を開けた。扉は少しも軋むような音を立てなかった。それだけ、きちんと手入れがされている。この棚自体が、大事にされている。諒太郎は中に入っているものへの期待が高まってくるのを感じた。胸の鼓動が、少しずつ速くなる。店主が、そしてセレが、こうまで大事に扱う石とは一体どんなものなのだろう。
諒太郎がごくりと唾を飲み込んだのと同時に、セレが中から木箱を取りだした。その木箱の形に、諒太郎は見覚えがあった。
「その箱、もしかして……」
「そう。そのもしかして、だよ」
セレは今度こそもったいぶらずに、諒太郎に箱を見せてくれた。
小さな木箱の天面にはガラスがはめ込まれ、中に入っている石がよく見える。少し起毛した布の上に並べられているのは、緑色の小さな石だった。
学校でセレが持っていたのは青い石の箱だったが、どうやらこの箱には緑色の石が集められているらしい。少しずつ色味の違う石が、やはり五、六個ほど収められている。形が不揃いなのは、あの店主がどこかから別々に調達してきた石だからだろうか。
「きれいだね」
諒太郎は素直にそう口にした。棚の中には、他にも同じような木箱が積まれている。おそらくその中にも、それぞれ違う色の石が集められているのだろう。
「他のものも見るかい?」
「ううん、これだけで十分。見せてくれてありがとう」
「……どういたしまして」
セレは少し名残惜しそうな顔をして、木箱を元の場所に戻した。それから、棚を閉めるかどうか迷っているようだった。
「セレの見たいものがあるなら、僕のことは気にしなくていいよ」
諒太郎はセレに気を遣わせまいとそう言ったが、どうやらセレが気にしているのはそういうことではないらしい。
セレは何かを口に出すかどうかずいぶん迷った後、ようやくその言葉を口にした。
「……諒太郎。君は昨日の夜、僕が話したことを、まだ覚えているかい?」
セレの声はずいぶんと固い。まるで、教師の前で緊張して話す生徒のようだった。
「もちろんだよ。だって、まだ昨日の今日じゃないか」
「……あんなもの、馬鹿馬鹿しい、つまらない話だと、そう思わなかったのかい」
「何を言ってるのさ。そんなわけないよ。セレが自分のことを話してくれて、うれしかった」
セレは、諒太郎の目をじっと見た。諒太郎の目の中に、何か探しているものがあるかのように。
セレの瞳を見つめ返しながら、ああ、まだ心を開ききってはくれないのだな、と諒太郎は感じた。
最初のコメントを投稿しよう!