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2-2.
昨日の夜、セレに鞄を渡した諒太郎は、その後二階にあるセレの部屋へと招かれた。
子供の部屋とは思えない、質素な部屋だった。引っ越してきたばかりのはずなのに、それらしい荷物もないのだ。部屋にあるのは、大人が使うような大きな机と簡素なベッド、そしてベッドサイドの小さな腰掛けだけ。
セレに促されて、諒太郎はその小さなイスに腰をかけた。幅の狭い木材で作られた、本当に小さなイスである。ほんの一瞬座るのをためらったが、セレの視線が何気なくこちらを向いた瞬間、早く座らなければと諒太郎は焦った。
「ねえ、セレ……僕に聞かせたい話って、どんな話なの?」
諒太郎は訳もなく感じる気まずさをごまかすように、セレにそう尋ねた。だが、セレは大きな机の前にあるイスに腰掛け、何かをじっと考えているようだった。
「セレ……?」
セレは諒太郎に背を向ける形で座ってしまい、あの青い瞳も見えない。ついさっきまで、あんなに穏やかな優しい瞳を見せていたのに。不安を感じた諒太郎は、イスから立ち上がりセレの背中へと近づいた。
「諒太郎」
急にセレが振り返り、諒太郎はびくっと背中を震わせた。しかしセレはそれに気づかなかったのか、机の引き出しに一度目をやってから、諒太郎に向かって尋ねる。
「この引き出しの中には、僕にとって一番大切な宝物があるんだ」
「宝物……」
「とてもきれいで、価値のある宝物だよ。だけど僕は、これを誰にも見せたくない。見せてしまったら、きっとその人はこの宝物を欲しがるだろうから。……諒太郎。君はこの宝物を見たいかい?」
諒太郎にとって、それは不可解な問いだった。
「誰にも見せなくない大切な宝物なんだよね? だったら、見るわけにはいかないよ。見たいなんて言えない」
「でも、興味はあるだろう?」
「少しはあるけど……それよりも、僕はセレと仲良くしたい。セレを悲しませてまで、その宝物を見たって意味がないよ」
そのとき、セレがふうっと大きく息をついた。そのため息はどんな意味を持っているのだろうか。諒太郎は再び不安に駆られた。
「セレ……僕の言ったことに、怒ってるの?」
「違うよ」
「じゃあ、どうして今ため息をついたの」
「感心したんだよ。君に」
感心、といわれて諒太郎はますますわけがわからなくなってしまった。人は感心するとため息が出るのだろうか。今まで諒太郎は、家でも学校でも、そんな話を聞いたことはなかった。
「諒太郎。僕はたぶん、君が今まで一度も会ったことのない部類の人間だと思う」
「そう……なのかな?」
「そうだよ。僕は誰も信じない。父も、母も、一緒に暮らしている伯母さんも」
伯母さん、と聞いて、諒太郎はこの家を訪ねたときに出迎えてくれた女性のことを思い出した。当然母親に違いないと思っていたが、あの女性は伯母だったのだ。
「学校の先生や友達は?」
「自分の家族も信じられないのに、そんな人たちのことを信じられるわけがない」
「そんな人たち、って……」
「君も身をもって知っただろう? あんな連中を信じられる人間のほうがどうかしている」
「それは、そうかもしれないけど……」
諒太郎は言葉に詰まってうつむく。しかし、すぐに顔を上げた。
「でも、誰も信じないなんて変だよ。セレは本当にそれでいいの?」
「それでいいさ。僕は嘘も強がりも言っていない。心からそう思っている。だから、こんな意地悪な会話も平気でできるんだよ」
「セレ……」
気遣うような諒太郎の視線を受けて、ああ、優しい子だな、とセレは思った。今までセレが生きてきた世界の人間とは違う。諒太郎は、セレにとっては縁遠い、温かい世界に生きる人間だ。そんな人間が、自分に向かって手を伸ばしてくれる日が来るとは思いもしなかった。
「君は、僕に信じられたいかい?」
セレは問いかける。自分でも、相変わらず意地悪な物言いをしているとわかる。しかし諒太郎は気を悪くした様子もなく、素直に応じてくれた。
「もちろん。僕のことを、信じてほしいよ」
セレにとって、それはありきたりな言葉だった。しかし、少し前までくだらないと思っていたその言葉が、今、セレの心に強く響いていた。
「諒太郎」
セレは諒太郎に向かって手を伸ばした。その意図を察したのか、諒太郎も手を伸ばした。
二人は手を繋いだ。意地悪な気持ちも、押しつけがましい優しさもなく、ただただ自然に、手を繋いでいた。
「僕の宝物を、君に見てほしい」
諒太郎は少し驚いたようだったが、彼が何か言うよりも早く、セレは自分の机の引き出しを開けた。諒太郎の手を離すまいと左手をぎゅっと握り、右手で引き出しの一番奥にあるものを取り出す。
それがセレの『決意』の表れであることは言うまでもなかった。
セレは右手だけで取り出した箱の蓋を開けると、それをそのまま諒太郎の前に差し出した。
箱の中には、石が入っていた。
数日前に教室で見たものよりもずっと大きい。
子供の握りこぶしほどもある半透明の石が、白い綿の上で、静かに輝きを放っていた。
「……天青石っていうんだ」
セレがつぶやく。諒太郎は、突然目の前に現れた石から目が離せなかった。
遠くから見ると透き通った淡い色の石に見えるが、その奥には夜空のような深い青が眠っている。まるで、夜空の青い色を、半透明の石が大事に守り抱えているかのようだ。
諒太郎はしばらくの間静かに見入っていた。美しい石だった。セレが大事にしまい込み、誰にも見せたくないと思うのも理解できる。こんなに美しいものを持っていたら、確かに、自分以外の誰にも見せたり触らせたりしたくないだろう。
「きれいな石だろう。でも僕が誰にも見せたくないと言った理由は、それだけではないんだ」
「それは……どんな理由……?」
聞いていいのだろうか、というかすかな不安を感じながら、諒太郎は問いかけた。返事はすぐにはなかった。だが、セレはつないだ手を、さっきよりも強く握り返してきた。
――――諒太郎を信じる。
セレの強い決意を感じて、諒太郎は彼が口を開く時を待った。
やがて、そのときはやってきた。
「……この石の別名は、Celestine(セレスタイン)」
聞いた瞬間、諒太郎ははっとした。セレの青い瞳は今、この青い石の中心に向けられている。二つの青は、諒太郎の目に、とてもよく似たものとして映った。
「僕のCele(セレ)という名前は、この石が由来なんだ」
「そうだったんだ……」
やっぱり、という言葉は心の中にしまい込んだ。
セレの名前の由来。この美しい石と、青い瞳。その関係性を考えたとき、セレの思いと、この石がどれほど大切なものかが、諒太郎にもわかった気がした。
「セレ。ありがとう。こんなにきれいで、大切なものを見せてくれて」
「……どう……いたしまして」
お礼を言われて戸惑ったのだろうか。セレは心持ち諒太郎に背を向けるような姿勢になってから、その言葉を口にした。いかにも言い慣れていないといった様子の、たどたどしい言い方だった。
諒太郎はセレとつないだ右手に、自分の左手も添えた。彼の少し冷たい手を、両側から包み込むようにして、そっと温める。
「セレが嫌でないなら、他にもいろいろと話してほしいな。セレのこと、もっとたくさん知りたいよ」
「ありがとう。……でも、それは今度にしよう。もう夜も遅いから」
セレの言うとおり、二人で話しているうちに、時間はあっという間に過ぎていた。子供だけで過ごすにはずいぶん遅い時間だ。
「そうだね。それじゃあ、また明日に」
「ああ、また明日」
また明日、という言葉がこんなに特別に聞こえたのは、今日が初めてだ。
諒太郎はそう思った。きっと、セレもそう思ってくれているはずだ。
二人は一階に下り、玄関で手を振って別れた。
手を振る度に、胸の中が今まで感じたことのない温かさで満たされていく。
本当に大切な友達に出会うと、どうやらこんな気持ちを知ることができるらしい。
諒太郎はセレと出会えた喜びを、今、しみじみと感じていた。
*
昨日彼と話したことを思い出しながら、諒太郎は棚の前で思案するセレをじっと待っていた。
この店に入ってからずいぶん時間が経つはずだが、店主が帰ってくる様子はない。
雑多な店の中で二人きり、諒太郎とセレは立ち尽くしていた。
この沈黙の間に、諒太郎にも推測できたことがある。それは、セレの持つ天青石は元々この店にあったものだということだ。そしておそらく、同じ石がまだここで売られている。
セレが何かを迷っているのは、きっとそのことと関係があるのだろう。
「……諒太郎」
長い沈黙は、セレの小さな声によって途切れた。
「この棚の一番下に、昨日僕が見せたものと同じ石があるんだ」
「……天青石が?」
諒太郎は、考えもしなかったという風に尋ねた。
しかしセレにはお見通しだったようで、すぐに彼は肩をすくめた。
「君にも察しはついているだろう? 気づいていないふりをしなくてもいいよ」
「ご、ごめん……」
「……やっぱり君は、優しすぎる」
その声音は、諒太郎の想像よりもずっと優しかった。
セレも優しいよ、と言いたかったが、彼の複雑な心の内を考えると、そんな安易な言葉は言うべきではないのかもしれない。
他に良い言葉が浮かばずに黙っていると、セレは棚の前で膝をつき、一番下の大きな引き出しを開けていた。
「天青石はここにある」
一番下の引き出しだけはやけに高さがあり、中には大ぶりの木箱が数個入っていた。セレはここでも慣れた手つきで、前から二番目にある木箱を開けた。木の匂いと、古いインクの匂いがする。
中には、昨日見たものと同じくらいの大きさの天青石がいくつも入っていた。どれの石も、一つずつ柔らかな白い布にくるまれている。
白い毛布の中で眠っているような石たちを、セレは愛おしむような目で見つめていた。一つ一つ、その存在を確かめるように手に取って、中の石を確認している。
セレはこれを見せるために、諒太郎をこの店に招いたのだろうか。
諒太郎はセレの隣にしゃがみ込み、彼の手元をじっとのぞき込んでいた。
やがてセレはすべての天青石を確認すると、それぞれの石を元の場所に戻し、木箱の蓋も閉めてしまった。
「もういいの?」
諒太郎が尋ねると、セレは静かにうなずいた。
「ああ。少し見るだけで十分だ。僕の天青石は、あの引き出しの中にあるから。今見ていたのは、別の誰かが石を買っていっていないか確かめていただけ」
「他の人が買いに来ることもあるの?」
この店に客らしい客が来るとは思えなかったが、意外にもセレは「ある」と答えた。
「できることならすべて僕のものにしたいけど、そういうわけにもいかないからね。だからせめて、この石が買われていないか毎日確認しているんだ」
セレはそう話しながら、ふと何かに思い至り、改めて諒太郎の顔を見た。
「諒太郎。まだ僕に好意的な気持ちを持ってくれているなら、もう一つ、僕の考えていることを話してもいいかな」
誰かを信じることに慎重なセレの心中を思い、諒太郎は努めて明るい笑顔を見せた。
「もちろん。もっと君のことを知りたいよ」
それを聞いて、セレは一瞬安堵したような表情を見せる。だが次の瞬間、彼の表情にはわずかに暗い影が差していた。
「僕は……ときどき、この石を砕いてみたいと思うことがある」
その暗い影と『石を砕く』という行為がどう繋がっているのかわからず、諒太郎は首を傾げた。
「石を砕く? 金槌を使うってこと?」
「金槌なんていらない。簡単に砕けるんだ、この石は」
そう言うとセレは開けたままになっている引き出しの角を指でなぞった。そして、一度しまい込んだ天青石の一つを手に取り、その角にぶつけるような仕草をする。
「……例えば、こんな風に角に当てるだけで、天青石は簡単に砕ける」
「そんなに簡単に……?」
「そうだよ。僕の部屋にある石も、実は少し欠けているんだ。引き出しにしまったり、出したりするだけでも、端の方が少しずつ欠けていく」
欠けていく、という言葉を発した瞬間、セレの顔に差す影は一層暗くなる。諒太郎も、少しだけ暗い気持ちになった。こんなにきれいな石なのに、そんなにたやすく砕けるなんて。
「……そうやって、少しずつ欠けていくのを見るくらいなら、いっそ、自分の手で粉々に砕いてしまいたいと思うことがあるんだ」
その言葉から、諒太郎はセレの心に落ちる影の濃さを感じ取る。そして、ほんの少しでも、その暗闇を薄めたいと思った。
「大丈夫だよ」
そう言って、諒太郎は引き出しから別の天青石を手に取った。
「欠けていくのは少しだけなんだよね? だったら大丈夫、注意してあまり動かさないようにすれば、粉々になんてならないよ」
諒太郎は、白い布にくるまれた天青石を両手で包み込み、ゆっくりと胸に当てた。口先だけで大丈夫と言うより、この方がセレの心に届きそうな気がしたのだ。
セレは、優しい言葉やいたわりの言葉をあまり信じていない。というより、信じたくても信じられないのだろう。あまりにたくさんの人からひどいことをされてきたせいだろうか。それなら、優しい気持ちを持っている人もたくさんいるのだということを伝えたい。
セレにとって何よりも大切な天青石をこうして優しく包み込めば、彼にもきっと伝わるはずだ。
諒太郎が考えた通り、セレは一瞬はっと息を呑んで、何か大事なことに気づかされたようだった。
良かった、と諒太郎はほっとする。
だが次の瞬間、セレは大きく身を乗り出し、諒太郎の体を抱きしめていた。
「セレ……?」
諒太郎は驚き、思わず彼の名を呼んだ。セレは名前を呼ばれたことに気づいて、慌てて諒太郎の体を離した。
「っ……ごめん。なんでもない……」
「えっと……大丈夫? 悩んでることがあるなら、聞くけど……」
「……そういうことじゃないんだ」
セレは諒太郎から目をそらすと、急に後ずさりを始める。さっき話をしていたときよりも距離が開いてしまって、諒太郎は少し寂しさを感じた。
「今のことは、忘れてくれないか」
「う、うん……」
「それじゃあ、もう行こう。そろそろ店主が帰ってくる。あの人は、人と顔を合わせるのが好きじゃないんだ」
「お店をやっているのに?」
「世の中には、そういう人もいる」
セレはやや早口でそう答えると、自分の学校鞄を手に取り、足早に店を出ようとした。
「ちょ、ちょっと待って、セレ」
諒太郎は天青石をしまってから引き出しを閉めると、自分も鞄を持ってセレの後を追おうとした。しかし、途中であることに気づいて立ち止まる。
棚の鍵を閉めなくて良いのだろうか。
だが諒太郎は、鍵がどこにあったかを瞬時に思い出すことができなかった。立ち止まって迷っていると、いつの間にか店主が戸口に立っていたことに気がつく。
「諒太郎。早く」
セレにぐいと手を引かれ、諒太郎は前のめりになりながら、店の入り口へと戻ってきた。途中、店主と目が合ったので「お邪魔しました」と言ってはみたが、彼からの返事は何もない。本当に彼は、人と会うのが好きではないのだろうか。
「また来るよ」
「ああ。また来い」
セレと店主の間ではごく短いやりとりが交わされた。二人の間ではそれで十分らしく、店主は店の中へ、セレは諒太郎を連れて外の庭へと、それぞれ向かっていった。
「棚の鍵、閉めなくて良かったのかな」
「ああ、それなら気にしなくていい。彼が閉めておいてくれるよ。あの人は、店の中で誰かに会うくらいなら、棚を開けっぱなしにして出て行ってくれたほうがいいんだ」
「本当に、変わった人なんだね」
「でなければ、こんな店をやっているわけがないさ」
話しているうちにセレはいつもの調子を取り戻していた。彼に促されて、諒太郎は庭の草むらに腰を下ろす。セレは店主の許可をもらって、店の中を見た後はこうして外で時間を過ごしているらしい。
「少し早いけど、昼ご飯にしないか」
セレはそう言って、自分の鞄から布にくるまれた箱を二つ取り出す。諒太郎は少し驚いた。まさかセレが昼食まで持参しているとは思わなかったのだ。
「伯母さんが作ってくれたの?」
「いいや、自分で作ったんだ。いくらなんでも、伯母さんに、学校を休むから作ってほしいとは言えないだろう」
「そう、だよね……」
昼食を自分で作るなど、諒太郎は考えもしなかった。学校に行けば給食があり、遠足の時には母が弁当を作ってくれる。家にいるときも、母が何かしら食べるものを作っておいてくれた。それが当たり前だと思っていたから、学校に行かずに、自分で昼食を用意するセレがとても大人びているように見えた。
すぐ隣にいるはずのセレが、改めて遠いもののように感じてしまう。それが、少し悔しかった。
セレはそんな諒太郎の視線に気づいていないのか、二つの箱の一つを諒太郎に渡すと、今度は水筒を取り出した。中には紅茶が入っているという。
「その紅茶も、セレが用意したの?」
「そうだよ。牛乳も砂糖も入っていないけど、諒太郎は大丈夫かな」
「だ、大丈夫……だと思う」
実を言えば牛乳の入っていない紅茶は苦手だったが、セレの手前、諒太郎は思わずそう言ってしまった。
そんな諒太郎を見て、セレは小さく笑う。諒太郎は優しいな、と言いたそうな眼差しで。
「冗談だよ。ミルクも砂糖も持ってきた。スプーンもあるから、これで心配いらないだろう」
「ごめん……ありがとう」
「謝ることないさ。こっちこそ、からかってごめん」
セレが自然に冗談を言って、自然に会話をしてくれる。そんな『当たり前』の行動が、諒太郎はうれしかった。
諒太郎はセレから紅茶を受け取り、布に包まれた箱を開けた。中には銀紙にくるまれたトーストが入っている。二枚の食パンの間にハムとチーズを挟んで焼いたもののようだ。炒り卵と輪切りのトマトも添えられていた。
「すごい」
諒太郎は素直に賞賛の声を上げた。自分では同じものを作れそうにない。紅茶も、諒太郎が知っているような渋いものではなく、とても澄んだ味をしていた。
「いつもやっていることなんだ。前に住んでいた町でも、その前の町でも、ずっと」
セレはそう言って、ミルクも砂糖も入っていない紅茶を飲んだ。
諒太郎はその横顔を、思わずじっと見てしまう。先ほどセレに抱きしめられたときのことが、まだ頭の中に残っていた。
「あのさ、セレ……さっきも言ったけど、何か困ってることとかあったら、言ってね。何でもいいから。僕、セレが話してくれるならいつでも聞くよ」
セレは水筒のコップから口を離して、しばらく何かを考えているようだった。
やはり何も話してくれないのだろうか。
諒太郎は辛抱強く答えを待った。
すると、セレは意外にも小さな笑みを浮かべ、諒太郎の方を向いた。
「さっきのことは忘れてほしい、って言ったんだけどな」
「ご、ごめん……」
「大丈夫。悩んでいるわけじゃないんだ。諒太郎が僕のことを大事に思ってくれるのがうれしかっただけで」
「ほ、本当に、それだけ?」
「それだけだよ」
セレにさらりと言われてしまうと、それ以上追及するのは難しかった。諒太郎は何も言えず、ただ黙り込んでしまう。
「そうだ。諒太郎、これを食べ終わったら、僕の家で勉強をしないか。算数なら、僕が教えられるよ」
トーストの端をかじりながら、セレが明るい調子で提案した。声が明るいのは、落ち込んだ諒太郎に気を遣ったのかもしれない。
「ありがとう。僕、算数は苦手なんだ。教えてくれたら、すごく助かるよ」
諒太郎も笑顔を見せ、セレと同じようにトーストをかじった。こんな風に、友達と二人で食事をするのは初めてのことだった。
*
諒太郎はその後セレの家で勉強を教えてもらい、いつも学校から帰るのと変わらない時間に帰路についた。
セレは本当に物知りだった。算数を教えてもらうだけでなく、諒太郎はいろいろな話をセレに聞かせてもらった。石のこと、空のこと、星のこと、宇宙のこと。
セレと話していると、時間がいくらあっても足りなそうだ。
今日も、少し名残惜しい気持ちでセレと別れた。
明日こそ、二人で学校に行こうと約束して。
そんな満ち足りた気持ちで家に帰った諒太郎は、玄関で怒りの表情の母と会ってしまった。
「諒太郎!」
名前を呼ばれ、諒太郎はびくりと背を震わせた。学校に行かなかったことは、とっくに知られているに違いない。
「一体どこに行っていたの。学校から電話が来て、あちこち探し回ったのよ。どこかで事故に遭ったんじゃないかって、心配でしょうがなかったわ」
「ご、ごめんなさい……」
学校を休めば母に迷惑をかけることはわかっていた。しかし、母に知らせれば学校に行きなさいと言われるに決まっている。諒太郎は、母に謝りながらも複雑な気持ちでいた。
「セレという子も学校を休んでいたらしいけど、まさかその子と遊んでいたの?」
「そう、だけど……」
できることなら、今日のことは大人には秘密にしておきかった。しかし、母の前で嘘をつけば事態はもっと深刻になるだろう。
母は怒りの表情から、なぜか苦々しいような表情になって、諒太郎に告げた。
「その子と遊ぶのは、もうやめなさい」
「え?」
思いも寄らぬ言葉に、諒太郎は思わず声を上げる。しかし母親の意思は明確なようだった。
「セレっていう子はね、今までに何度も何度も転校を繰り返しているんですって。前の学校では、一ヶ月も経たずに転校してしまったそうよ。せっかく友達になっても、きっとすぐにいなくなってしまうわ。だから、その子と仲良くするのはやめなさい」
母親は、まるで理に適った説明をしているかのように話しているが、諒太郎は違和感を抱いた。転校を繰り返しているから、という理由で友達になるなというのはおかしな話だ。
「お母さん? 転校する子と仲良くしちゃいけないなんて変だよ。セレが何度も転校してるって話は、僕も知ってるけど……セレだって、転校したくてしてるわけじゃないんだ。どうしてそんなことを言うの」
母親を非難するような言い方をしていることに、諒太郎はわずかな罪悪感を覚える。しかし、母親のおかしな言いつけを聞くことなどできなかった。
諒太郎の母は一瞬言葉に詰まり、それから苦し紛れといった風に言葉を絞り出した。
「諒太郎……わかってちょうだい。あの子と仲良くするのはだめなの。他の子なら、転校生でも構わないわ。でも、あの子だけはだめ」
「だから、どうして……そんなにいけないなら、どうして昨日の夜はセレの家を教えてくれたの」
諒太郎はそのことにお礼を言うつもりだったのに、諒太郎自身の予想とはまったく異なる方向へと話が進もうとしている。
母は、何に必死になっているのかわからないが、とにかく必死の形相になっていた。
「お母さんも、今朝初めて知ったの。あの子とだけは、絶対に仲良くしちゃいけないってことを……。だからね、諒太郎。とにかくその子とはこれ以上一緒にいたらだめ。約束だからね」
「……。わかった」
諒太郎はこれ以上母と話すのは無意味だと感じて、嘘をつくことにした。憮然とした表情でうなずくと、もうこの話は終わりとばかりに家の中に入る。もちろん、母の言うとおりにするつもりはない。
優しくて尊敬できる母だと思っていたのに、諒太郎はすっかり母に幻滅してしまった。
これ以上母の声を聞きたくなくて、諒太郎は自分の部屋にこもると、毛布をかぶって眠ったふりをした。
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