3-1.

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3-1.

 次の日も、空はよく晴れていた。  諒太郎は昨日の朝とは打って変わって、少し不機嫌になりながら学校に行く支度をした。  母は、相変わらずセレとは仲良くするなと念を押してくる。この件には関係ないはずの父でさえ、母と同じようなことを言った。  諒太郎はそんな両親の言葉を聞き流し、「行ってきます」と少し棘のある声で言って家を出た。  実を言えば、まだ一昨日の件のせいで体が少し痛む。しかし、今日だけは絶対に休めないと思った。何が何でもセレと一緒に学校に行くのだと意気込んで、諒太郎は見慣れた通学路を急いだ。  セレは、昨日と同じく電柱にもたれかかるようにして諒太郎を待っていた。  諒太郎は明るい気持ちになって駆け寄ったが、こちらを向いたときのセレの表情は険しかった。 「セレ……?」  一瞬嫌な予感がして、諒太郎は立ち止まる。セレは厳しい表情のまま、諒太郎に問いかけた。 「諒太郎。昨日、僕のことで家の人から何か言われなかったかい?」  まるで、昨日諒太郎の家で起きた事を知っているかのような口振りだった。  諒太郎はここでもまた不機嫌になりそうだった。  しかし、何とかそれを抑え、セレに向き合う。 「言われたけど……どうしてセレがそれを知っているの?」 「別に知ってたわけじゃない。ただ、伯母さんが気になることを言っていたんだ。昨日、この辺りに住む母親たちの間で僕のことが噂になっていたって」  だから諒太郎の母親がその話をするかもしれない、と予想できたのだろう。諒太郎は少しだけ安堵して、セレに昨日のことを話した。 「確かに言われたよ。セレは何度も転校している子だから仲良くするなって。そんなのおかしいって僕は言ったけど、全然聞いてくれなかった」 「きっとそうだろうと思ってたよ」  セレは怒るわけでも落ち込むわけでもなく、不思議なほど落ち着いている。 「今までもそうだった。どこの町に行っても、僕の噂が広まると大人たちはみんなそう言うんだ」  おそらくセレは、こんな事態に慣れ切ってしまったのだろう。どこか他人事のように話すセレを、諒太郎は見ていられなかった。 「お父さんもお母さんもひどいよ。他の転校生ならいいけど、セレだけはだめだって言うんだ。こんなのおかしいじゃないか。まるで、みんながよってたかってセレをいじめているみたいだ」  ここで言っても仕方ないと分かっていても、諒太郎は声を上げずにはいられなかった。そんな諒太郎を、セレは小さな子供を見守るような目で見つめている。 「残念だけど、火のない所ならそもそも煙は立たないんだ。彼らがそんな風に言うのも無理はないよ」 「セレ……!」  どうしてセレは、こんな扱いを受けているのに、それに納得しているのだろう。諒太郎は頭に血が上りそうになった。  一昨日と同じだ。あのとき、諒太郎は自分勝手なクラスメイトに腹が立ち、自分でも信じられないほどの大声を上げていた。そのときと同じことが、今諒太郎の中で起きそうになっている。  諒太郎が怒りを感じていることに気づいたのか、セレがそっと手を伸ばす。そして、諒太郎の手首を取ると、優しく諭すような声で状況を説明した。 「諒太郎。僕のために怒ってくれているのは分かるよ。でも、今怒ってもどうにもならないんだ。怒ったところで、悪いのはすべて諒太郎ということにされてしまう。だから今は、つらいかもしれないけど耐えてほしい。たぶん、一ヶ月くらいの辛抱だから」  諒太郎の脳裏に、一昨日の教師の様子が浮かんだ。  どんなにセレを擁護しようとしても、あのときと同じことを繰り返すだけになってしまう。だから今は耐えなければならない。  セレの言いたいことを理解し、諒太郎は少しだけ冷静になれた。と同時に、セレの言う『一ヶ月くらいの辛抱』という言葉が気になった。 「セレ……一ヶ月くらいの辛抱って、どういうこと……?」  口に出してしまってから、諒太郎は急に大きな不安に駆られた。  考えるまでもないことだった。何度も転校を繰り返しているセレの、悪い噂が消えるまでに必要な時間。それはつまり――――。 「……たぶん、一ヶ月くらい経てば、僕は別の町に引っ越すよ」 「そんな!」  諒太郎にとって、それは何より聞きたくない言葉だった。  まだ友達になったばかりのセレと、たった一ヶ月で別れなければならない。それも、セレはただの友達ではないのだ。諒太郎が初めて出会えた、心から大切だと思える友達。諒太郎の趣味や好きなことを否定しない、自分と違う価値観を持つ相手を尊重してくれる、そんな特別な存在だ。そんなセレと離れなければならないと聞いて、つらくならないわけがない。 「……やっぱり、諒太郎は優しいな」  愕然とする諒太郎に、セレは小さく笑いかけた。そして、諒太郎の腕を取ると、自分から学校の方へと歩き出した。 「セレ?」 「早く学校へ行こう。このままだと遅刻しそうだ」  セレは笑っていた。いつものような皮肉めいた笑いではなく、心から素直に笑っているようだった。  諒太郎は一瞬驚いたが、すぐにセレの言いたいことを理解し、彼の隣に並んだ。 「セレ。すぐに転校してしまうなら、今のうちにたくさん思い出を作ろうね」 「うん。それがいい」  諒太郎の言葉に、セレははっきりとうなずいてくれた。 「今日もあのお店に行く?」 「さあ、どうしようかな。せっかくなら、この町にいられる間に諒太郎の好きな場所もたくさん知りたいんだ。だから少し迷ってる」 「だったら、今日は河原に行こうよ。僕もよく行くんだ」  諒太郎は努めて明るい声で提案した。セレもそれに同意する。 「諒太郎が誘ってくれるなら、そうしよう」 「それじゃあ、放課後、すぐに行こうね」  話しているうちに、諒太郎の気持ちも明るくなってきた。  セレが転校してしまうという事実は悲しいが、それなら尚更、今の時間を大切にしたい。  ようやくセレと自分の気持ちが重なった気がして、諒太郎はうれしかった。 「セレ! 急ごう!」  諒太郎は走り出したいような気持ちになって、今度は自分からセレの手を取った。そしてしっかりと手を繋ぐと、学校に向かう道を走り出す。 「何だか、急に子供みたいになったな」  困ったように微笑むセレに、諒太郎は満面の笑みを返した。 「子供だよ。僕たち、まだ子供なんだから、たくさん子供らしいことしなくちゃ!」  そうして諒太郎は、セレを引っ張るようにして通学路を走った。少し遅れてセレも走り始め、二人はまるで競うかのように学校への道を駆け抜けていく。  その途中、セレは前を行く諒太郎に聞こえないくらいの声で、そっとつぶやいた。 「諒太郎。君のその優しさは本当にうれしいよ。でも、こんな風に手を繋がれたら、僕は余計に……君の好意を勘違いしてしまいそうなんだ」  その声は、夢中で走っている諒太郎には届かない。どうか事が起きる前に転校の日が来ますように、と心の中でセレは願った。 *  たった一日休んだだけだというのに、諒太郎は学校に来るのがとても久しぶりのように思えた。  言うまでもなく教師からは叱られ、もうこんなことをしないようにと、何度も何度も注意された。  不思議だったのは、羽島と長城の奇妙な態度だった。諒太郎は、どんなひどい目に遭わされるかとびくびくしていたが、彼らがこちらに何かをする様子はない。  諒太郎が拍子抜けしていると、休み時間の間にセレが来てそっと耳打ちした。 「あの二人はずっと上級生のいいなりだったんだろう? 君が一人で上級生に立ち向かっていくとは思わなかったから、どう接すればいいのか分からなくなったんだ」  そう言って皮肉屋のように笑うセレに、諒太郎は困ったようにつぶやいた。 「絶対、仕返ししてくるかと思ったのに……」 「あの二人だけでは、それもできないんだろう」 「でもどうしよう。上級生の方は、きっと何かしてくるよ……」  口に出した途端、諒太郎は身震いしてしまった。自分よりも遙かに力の強い上級生たちが、また殴ってくるかもしれない。覚悟してはしてきたつもりだが、それでもやはり怖かった。 「なら、今のうちに帰るかい?」 「そ、それはだめ……だと思う」 「真面目だなあ。教師の言うことなんて気にすることないのに」 「そうじゃなくて、勉強……できなくなるし……」  諒太郎は勉強が好きというわけではないが、このまま勉強しないで時間が過ぎてしまうのは良くないと思った。  セレに自分の考えは伝わるだろうか。  恐る恐るセレの青い目を見ると、納得したような眼差しがこちらに向けられていた。 「大丈夫」  セレの手が、机の上に置かれていた諒太郎の手に重ねられる。 「心配いらないよ」  セレの声はとても優しい。その声を聞くだけで、不思議と心が落ち着くような気がした。小さく息をついた諒太郎は、確信を持って話すセレにその根拠を尋ねた。 「根拠も何も、この件はもう過去のものなんだよ」 「過去のもの?」 「あの連中は、もう僕たちに構う余裕なんてないはずだ。諒太郎は安心して授業を受けるといい。もう、仕返しされる心配はないから」 「う、うん……」  詳しいことはわからないが、上級生たちは手を出してこない、これだけは確からしい。もう少し詳しい話を聞きたかったが、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴ってしまい、セレは自分の席に戻っていった。  セレは次の授業の準備をしながら、ほんのわずかに安堵の表情を浮かべた。  諒太郎は知る由もないことだが、セレや諒太郎に暴力を振るった上級生たちは、今頃大人たちに囲まれているはずだ。  あの上級生たちは、町の中でも問題行動を度々起こしていたらしい。特に昨日は、他校の校長にそれを見られた。  その校長は教育界の重鎮として敬われているようだが、『子供をしつける上で罰を与えることは必要なことである』という考えも持っている。  そんな校長の目に留まるところで悪いことをしてしまったのだ。何のおとがめもないということはないだろう。  自分たちをひどい目に遭わせた連中が罰を受けているところを想像して、セレは胸がすくような思いだった。羽島と長城の様子が妙なのは、その上級生たちがどうなったのかを知ったからかもしれない。  何はともあれ、これであと一ヶ月程度は、諒太郎と一緒に穏やかな日々を送れそうだ。  セレの中にもうれしいという感情がわき上がってきて、自然と目の前が明るくなるような気がした。  例えこの先何が待っているとしても、今この時、諒太郎と一緒にいられる時間を大切にしたい。  それは、紛れもないセレの本心だった。 *  放課後、二人は教室を飛び出すと、急いで河原へと向かった。  特に急ぐ理由があったわけではないが、とにかくそうしたかったのである。  息を切らして走る時間も楽しくて、二人は何度も互いの顔を見て笑った。  やがて諒太郎は見慣れた土手沿いの道に入り、セレを『いつもの場所』へと案内した。 「……久しぶりだな、この場所」  セレはすうっといつもの表情に戻ると、頭上にかかる橋を見上げた。  そして、感慨深い様子でつぶやく。諒太郎もうなずいた。あれから三日しか経っていないのに、不思議と、あの日が遠い昔のように感じられる。 「ここでセレが声をかけてくれなかったら、僕たち、友達になる機会もなかったよね」 「何もかも君のおかげだ。ありがとう」  セレの口から、なめらかに『ありがとう』という言葉が発せられる。  それがとてもうれしくて、諒太郎は笑みをこぼした。だが次の瞬間には、笑った顔を見られないように視線を地面へと向けていた。 「ううん、お礼を言いたいのは僕の方」  諒太郎は、河原にしゃがみ込んで一つの石を拾った。ところどころに白い模様の入った石だ。全体としてはどこにでもあるような石なのに、その白い部分だけが、まるで水晶のように光っている。 「僕のことをこんなに分かってくれる友達に出会えるなんて、今でも夢みたいなんだ。僕の好きなものや、考えていることに同意してくれる友達なんて、きっと一生見つからないと思ってた……」 「それは僕もだよ」  話しながら、セレが諒太郎のそばに立つ。肩が触れ合うほど近い距離で、セレは諒太郎の手元をのぞき込んだ。そして、「きれいな石だ」と小さく言った。 「君が僕のためにあれほどのことをしてくれるとは思わなかった。誰かから、あんなにも親切にされたのは初めてのことだよ」  セレに真正面からそう言われると、諒太郎はどこか恥ずかしいような気持ちになって、セレの前でおどけてみせた。 「初めてなんて。大げさだなあ」 「大げさじゃない」  セレは真剣な声で答えた。 「本当なんだ。君も気づいているだろうけど、僕はここに来るまで、いつも誰かの悪意にさらされていた。それが当たり前だと思っていたから、他人を信じるなんてあり得ないと決めつけていた……」  セレは諒太郎から離れ、川の向こうの景色を見た。彼は今、たくさんの人から向けられてきた悪意のことを思い出しているのだろう。 「……ごめん」  諒太郎は、こんなときにおどけた自分こそ恥ずかしいと思った。すぐに謝るが、セレはやはり、ここではないどこかを見ているようだった。  少し遅れて、セレがこちらを振り返る。さっきまでの感傷的な様子は消え、ただ静かに笑っていた。 「君が謝る必要なんてない。……前にも言った気がするな、この言葉」 「うん……そんな気がする」 「諒太郎。謝るのは僕の方だよ。いつも君に気を遣わせてばかりいる」  セレがこちらを見ながら歩いてくるので、諒太郎は内心ほっとした。やっとセレの心が、自分の近くに戻ってきてくれた気がしたのだ。 「気にしないで。それに、僕も気を遣ってるわけじゃないよ。セレと話ができるのが、本当にうれしいんだ」 「ありがとう」  そう言うと、セレは急に目を伏せた。何かを考えているようだった。 「今日も、僕の家に来ないか?」  セレからの提案に、諒太郎は少し驚いた。セレが自分に心を開いてくれているとは感じていたが、そこまで懐深くに入ることを許すとは思わなかったのだ。 「いいの? 今から行って、伯母さんの迷惑にならないかな?」  九月の夕暮れは日増しに早くなってきている。今はまだ日が高いが、これからセレの家に行って話しを始めたら、あっという間に外が暗くなってしまいそうだ。 「……そうだね。ごめん。今のは軽率だった。今日は伯母さんと一緒に夕食を食べるって約束していたのに、諒太郎に言われるまで忘れていたよ」  心なしか、セレの声が暗い。さっきまでのまっすぐな声から一転、急に何か言いにくいことを言うような声になっている。  一体どうしたというのだろう。 「セレ? 別に、無理する必要なんてないんだよ。友達だから家で遊ばないといけないなんて決まりはないんだ。僕はセレと話すのが好きだけど、場所は学校でも、河原でもいいんだから」 「……うん。少し、焦りすぎたみたいだ」  セレはうつむいたまま顔を上げようとしない。諒太郎は目の前に暗雲が立ちこめたような気がして不安になった。 (もしかして、昨日と同じことが原因……?)  諒太郎は昨日、あの店でセレに抱きしめられたことを思い出した。  セレは何かを隠している。何らかの大きな不安を抱えているのに、それを諒太郎には教えてくれない。  セレが教えたくないのなら、無理に追及したくはない。しかし、セレの悩みは、とてつもなく大きいものではないかという気がして、諒太郎はますます心配になった。  もしかしたら、その不安の大きさに、セレ自身が潰されてしまうかもしれない。そうなる前に、自分が手助けすることはできないだろうか。  諒太郎はそう思うものの、今彼のためにできることはほとんどない。これ以上話を聞こうとしても、セレはきっと話してくれないだろう。だから、彼が話してくれるときを待つしかない。そのときが、いつ来るのかは分からないが。 「セレ。不安なときには、いつでも僕を頼ってね。僕にできることは、そんなにないかもしれないけど……昨日みたいに、手を繋いだり、抱きしめたりすることはできるから」  うつむいたままのセレが、はっと息を呑む。あのことは忘れてほしいとセレ自身が言っていたが、それでも諒太郎は忘れることなどできなかった。  セレはきっと、助けを求めているのだ。  昨日諒太郎を抱きしめたのは、何か大きな不安から自分を救ってほしいという気持ちの表れではないだろうか。  諒太郎はそう思っていた。  しかし、やはりセレは本当のことを言ってくれなかった。 「ごめん……ごめん、諒太郎……本当に、ごめん……」  セレはうつむいたまま、何に対してかわからない謝罪を口にした。その声は震えている。握りしめた両手も震えていて、諒太郎はセレが泣いているのではないかと心配になった。  数分の間沈黙が続き、セレは泣いているような声で小さく切り出した。 「ごめん、諒太郎……伯母さんが待ってるから、今日はもう帰るよ……」  セレは顔を上げずに隅に置いた鞄を取ると、急いで諒太郎に背を向けた。帰りを急いでいるのだと分かっていても、諒太郎は少し寂しくなる。しかし、引き留めることはできなかった。 「うん……気をつけて……」  諒太郎はそれだけを伝えると、後は黙ってセレを見送った。  セレはずっと顔を伏せていて、その表情はわからない。心持ち早足で歩いていたかと思うと、土手沿いの道に上がった途端、急に走り出した。 「セレ……」  諒太郎はただただ不安な気持ちで、遠ざかるセレの姿を見つめていた。
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