ここに、そっと

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 青い空、澄んだ空気。およそ、1年ぶりだ。 7月1日。解禁された富士登山。五合目でバスを降り、私はスニーカーを登山靴に履き替える。風に飛ばされぬよう紐のついた、つばのぐるりとある帽子をかぶる。そして、左手薬指には登山に似つかわしくないダイヤの光る婚約指輪。 次は山頂まで行こう、と言った彼は、約束を果たさぬまま私の傍からいなくなってしまった。  昨年の秋のことだった。その日は私の家に行くと言っていた彼が、いつまで経っても来なかった。急な仕事でも入ったのかと思っていた。 翌日、私の携帯に知らない番号から電話がかかってきた。仕事中で出られなかったのだが、登録していないなら営業か間違い電話かだろうと気にしていなかった。しかし、夜確認すると6回もかかって来ていた。さすがに無視していい電話ではなさそうだと思い、かけなおした。 「ああ、真優(まひろ)さんですか?智弘の母です。」 私は動揺した。その日、彼からは一つの連絡もなかったのに、なぜ彼の母からは電話がかかってくるのだ。以前彼の実家に遊びに行かせてもらったことがあり、その時に母親には会った。しかし、連絡先を教えた覚えはない。心なしか、彼女の声は震えていた。私の心臓は、すでに通常より強く速く鳴っていた。 「智弘ですが…昨日、交通事故で亡くなりました。電話番号は智弘の携帯から調べさせてもらったの。あなたには伝えるべきだと思って。」 唐突な話に、私の思考はついていくことができなかった。しかし、彼女の話はどんどん具体的になっていく。事故の状況はこうだった、葬儀の日時、場所はどこだ、遺品があるのならばどうこうしてほしい…私はただただ機械的にはい、はい、と返事することで精いっぱいだった。  彼の葬儀に参列し、お焼香を上げ、棺に花を手向け、冷たい彼の頬に触れた。姿はそのままだったけれど、もう、私の知っている彼ではなかった。  彼は私の部屋によく来ていたので、服や日用品などが置きっぱなしになっていた。彼の遺品を整理している時、私はそれを、彼が外出時によく使う鞄の中に見つけた。隠し場所に困って、そのままにしてしまったのかもしれない。乾ききったと思っていた涙がまた溢れてきた。 ダイヤの光る婚約指輪。内側には「from T to Mahiro」の刻印。文字数の関係で、自分の名前はイニシャルしか入らなかったのだろう。私の名前だけきちんと入れるなんて、彼らしい。  あれからおよそ10か月。私は今日、彼との約束を果たすため一人富士山頂を目指す。  もともとは彼の趣味だった。付き合い始めたころ、筑波山に一緒に登った。普段運動する方ではない私は、かなりこまめに休憩を要求しつつ山頂までたどり着いた。山頂の空気はとてもおいしかったし、彼の笑顔がまぶしかった。  それから年に1回か2回のペースで、彼と登山を楽しんだ。登山靴やザックもアウトレットに一緒に行き、買いそろえた。 日本最高峰の富士山に挑戦したい、と言い出したのは私だった。彼はすでに友人と挑戦したことがあった。しかし、天候が悪く山頂までは辿り着かなかったそうだ。 二人で登った日も、八合目で天気が荒れ、登頂を断念した。 「また二人で来よう。次は山頂まで行こう!約束。」 悔しがる私に、彼は笑顔で言った。その時は、次がないなんて、思いもしなかった。  富士山は、他の山と比べて殺風景だ。私はザクザクと歩みを止めることなく登っていく。ご来光に間に合う時間ではないし、平日なので登山道は空いていた。 「登るとき、上半身を真っすぐにした方が疲れないよ。」 彼の言葉を思い出し、かがめていた体を起こす。 「汗をかくとあとで体を冷やすから、上手く首元のチャック開けたりして体温調節するといいよ。」 ウィンドブレーカーのチャックを少し下ろして歩き続ける。空気がひやりと気持ち良い。 「何で山で飲むコーヒーってこんなにうまいんだろうね。」 シングルバーナーで湯を沸かし、自分で淹れたコーヒーをすする。ほっと体が温まる。 「遭難した時のことも考えて、甘いものを持って行った方がいいよ。」 一口サイズのチョコレートを、休憩時に自分で口に放り込む。舌で転がしながら、ゆっくりと溶かす。体に染み入る。 八合目を越えた。快晴だ。フリースを着る。 「酸素が足りないと高山病になっちゃうから、呼吸はしっかりした方がいいよ。特に力むときに息を止めがちだから気を付けて。」 呼吸を止めないよう、大きな段差を上るときに意識的にふーっと息を吐く。雷鳴のような、自衛隊の火力演習の音が響いていた。 鳥居が見えた。もう山頂はすぐそこだ。最後まで慎重に歩みを進める。 最後の一歩を、吐く息と共に踏み出す。    山頂からの眺めは、まるで飛行機からの景色のようだった。うっすらと眼下に雲が漂う。広く、遠く、世界は広がっていた。いつもの自分の居場所が全く違うものに見えた。 7月なのに、薄手のダウンを着ていても凍える寒さだ。きーんと空気が澄み切っている。 「やっぱり、登山はいいわぁ。」 山に登る度、彼が感嘆のため息とともに呟いていた言葉が耳の中に響く。その時の満足げな彼の表情が、本当に好きだった。 私は薬指の婚約指輪を外す。右手でぎゅっとそれを握った。ぐるりと山頂を見渡す。しばらくして、私はそれをまた左手の薬指に戻した。 最初は、その指輪を山頂から投げ捨てようと考えていた。彼との最後の約束を果たし、きれいさっぱり彼のことを忘れ、次へと踏み出すために行う、自分のための儀式をしようと。 しかし、一人で登ってみてようやく気付いた。 必要なのは、忘却ではない。彼からの言葉も、笑顔も、優しさも、もらったもの全てが、私の一部となっていることを認めることだ。 そして、全てを悲しい思い出に変えてしまわずに、大切だった日々を抱き続けることのできる、強く穏やかな心を持つことだ。 「やっぱり、登山はいいわぁ。」 私は一人呟き、下山し始めた。  帰宅後、もろもろの片づけを済ませてから、私は婚約指輪をそっと外した。ケースの中にしまい、引き出しの中へ入れた。そして、音を立てぬよう丁寧にゆっくりと、閉めた。 私の、大切な心の一部。静かに、暖かに、これからも持ち続けよう。
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