マザー

1/1
前へ
/1ページ
次へ
母さんへ この手紙を読んでいるということは、無事に介護施設の職員さんが届けてくれたということですね。どうかあたしの代わりに、お礼を伝えておいてください。 母さん、お元気ですか? そんなわけないよね。このたびは、本当にごめんなさい。あたしは世界一の親不孝者です。でも、許してください。 これから書くのは、遺書ではありません。親愛なる母さんへの、お手紙です。あたしから母さんへの最後のお手紙。母さんは、たったひとりの家族だから、最後に手紙くらい残しておこうかと思ったのです。 ちなみに今はちゃんとシラフで書いています。えらいでしょう? 母さんと同じ、病気になっちゃうなんて、因果めいたものを感じます。でも、なぜかあたしは今、シラフなのにお酒を飲んだみたいに饒舌になっています。人間は、死を前にすると気分が高揚するのでしょうか。死んだことがないからそれはわからないけど。なんにせよ、この勢いで今まで言えなかったことを全部ここに書きます。これからあたしが死んだら、本当に全部が、なかったことになってしまうからね。書き残させてください。 まず最初に、こんなこと書いてはいけないとわかっているけど、書きます、 あのね、母さん。あたしはずっと、自分が生きていることに対して罪悪感がありました。 昔、母さんにそのことを冗談めかして言った時がありました。母さんは顔を真っ赤にして怒りました。親の前でそんなこと言うものじゃない、と。あれは怖かったです。だから、この気持ちは人前で出しちゃいけない類のものなんだと思って、心の奥に押し込んでおきました。でも、一時的にはおさまっても、やっぱり常につきまとってきました。結局この手紙を書いてる今も、罪悪感は消えていません。 お腹を痛めて産んだ娘がこんなことを言うなんて、むかつくし悲しいでしょう。だから、母さんの前でだけは二度と言わないようにしてきました。 でも本当は、ずっと苦しかったです。正体のわからない罪悪感に苛まれて、息をしててもお風呂に入ってても布団を被っても、ずっとずっと。 生きててごめんなさい。 そんな気持ちになってしまう。見える世界すべてに対して、申し訳ない気持ちになってしまうのです。なぜなら、あたしの世界すべてを作ったのは母さんだから。あたしを産んだのは、母さんなのだから。母さんはあたしの、神様みたいなものです。あたしは、母さんに対して、罪悪感があるのです。 母さん。あたしを産んだとき、どんな気持ちだったのでしょう。 あたしのこの罪悪感は、具体的に何に対しての罪悪感なのでしょう。わからないけど多分、お金のことはある。 生きてるだけであたしたちはお金がかかります。女手ひとつで母さんはあたしを大学に行かせてくれました。私立じゃお金がかかるから行くなら国立にしてねって言うから、あたしがんばりました。母さんは冗談で言ったのかもしれないけどあたしは真に受けて、遊びも恋愛もせずに、毎日毎日受験勉強をがんばって。なんとか国立大学に受かりました。合格発表の日、すごいねって、母さんはあたしのことを抱きしめて、猫にするみたいにやさしく撫でてくれましたね。あれは少し恥ずかしかったけど、幼い頃に戻ったような感覚で、心が懐かしい気持ちに満たされて、こっそり涙が出ました。あの日のあたしには希望しかありませんでした。これから絶対に明るい未来が待っているんだって、心の底から信じていました。「生きててよかった」と思ったことがあるとすれば、それは間違いなくあの日でした。罪悪感も軽くなったのを感じていました。 いつ頃からか母さんは、毎日不機嫌そうに帰ってくるようになりました。母さんは仕事が終わって帰ってきてもまだごはんを作ろうとしてくれました。でも、不機嫌なのは手にとるようにわかりました。冷蔵庫を開け閉めする音、食器のふれあう音、鍋のふたを閉める音。台所の音たちはみんな饒舌に、母さんの不機嫌を伝えていました。母さんは気付いていなかったかもしれないけど。仕事で何があるのかはわからないし、母さんには母さんのプライベートがある。だから踏み込まないようにして、できるだけ波風立てないようにあたしは過ごしていました。やれる家事は全部こなして、食事も外で済ませてきて、母さんのイラつきを煽らないようにしていました。あたしが部屋に閉じこもるようになったのも、その頃からだった。だって母さんは怖いんだもの。あのときあたしは、母さんと同じ空間にいるだけで、罪悪感がずっしりと肩にのしかかっていました。自分の不機嫌さを、まわりの物にあたることで人に察させるのは幼い人のやることです。母さんはそんな人じゃないと思いたかったです。 母さんが覚えているかはわからないけど、あたしは、あの日母さんが酔って口にした言葉にずっときつく縛られてきました。「あんたなんか産まなければ良かった」。お酒というものは人の本音を暴くんだそうです。あたし、アル中になってから、お酒の害についてたくさん勉強をしました。本をたくさん読みました。そしたら今、ようやく母さんと自分のことが少しだけわかったような気がします。でももう疲れました。ごめんなさい。 母さんはあたしを産んだとき、どんな気持ちだったんでしょう。小学生のときにそういう宿題があって、インタビューしましたね。そのときの答えを、覚えているでしょうか。「会えてうれしかった」って。 それから、自分の名前の由来を親に聞くという宿題もありました。あたしは、母さんがくれたものの中でいちばん気に入っているのが、この名前です。その次が、母さんが嫁入り道具で持ってきたピアノと、書き込みでいっぱいの楽譜たち。 あたしは、結婚も妊娠も出産もしないまま、これから生涯を終えます。子どもを産むって、どんな気持ちになるんでしょう。自分の身体から、新しい人間が出てくること。親になるということ。子どものときは、出産ってどういうことなのか全然わからなかったけど、大人になった今もわからないままです。母さんの気持ちがわかるのなら、ちょっとだけ体験してみてもよかったかなと思います。でも、母さんと同じ、お酒に毒されたあたしには、妊娠することはとてもできません。ごめんなさい。 寝る前には毎晩、お酒を飲んでいましたね。習慣のように。リビングのテーブルに突っ伏して寝ちゃうから、風邪ひくよって起こすと、いつも怒りながら寝室に向かいました。母さんが眠ってはじめて、あたしは安心して過ごすことができました。お酒を飲んだ母さんはぐっすり眠って起きてこないから、好きなだけテレビを見たりごはんを食べたりしていました。だけど、今思えばそのことにも罪悪感がつきまとっていた。 あたしは、家族のことは、愛していなければならないものだと思い込んで生きてきました。学校の道徳の授業でもそのように教えられました。家族の愛は美しく尊いと。だって、血のつながりは揺るぎないものだから。あたしと母さんをつなぐ確かなものは、血だけです。DNAです。血のつながりは一生不変の事実です。だから、あたしにとって絶対的な存在である母さんのことを嫌ってはいけないと思っていました。あたしは家族に恵まれているんだって思いたかった。たったひとりの家族が母さんだから、母さんを悪にするわけにはいけない。そしたらあたしは、何をよりどころに立っていればいいのかわからない。 今正直に書くけど、本当は、心のどこかで、母さんのことを嫌っていたのかもしれません。イラつきを隠さないこともお酒におぼれることも、本当は「なんて幼い人なんだろう」って失望していました。だけど、母さんには崇高な存在でいてほしかった。じゃあどうする? あたしのほうが屈すればいいんだって思った。母さんのことは変えられないなら、あたしが屈するしかない。そうしてでも、信じたい。ねえ、本当の宗教というのは、血のつながりなのかもしれません。このあたしを産んだ人は、母さんなんだから。あたしの世界のすべての根源を作った神は、母さんなのだから。あたしは母さんのことを嫌うわけにはいかないと、無意識に思っていました。今思えば。今も、母さんのことを嫌いになってしまうこの心が憎いです。申し訳なく思います。この心を治してみたい。でも、身体の中から心だけ取り出して治療するようなことはできません。だから身体ごと全部、消してしまうことにしたのです。あたしがこれから死ぬ理由はそういうことです。あたしは母さんのことが大好きでした。大好きだからこそ、ずっと大好きなままで永遠のお別れをしたいと思ったんです。これは、逃げです。あたしは、施設に入る容体にまでなってしまった母さんと向き合うのが怖くて、逃げました。逃げて逃げて、それでもずっと母さんを忘れることはできませんでした。あたしたちは血でつながっているのだから。 母さん、もうあたしを許してはくれないでしょうか。 まだ伝えきれていないことがたくさんあります。あのね、あたしは母さんにたくさん嘘をついてきました。その中で、いちばんの嘘のことを、書いておきます。 高校生の頃、友だちとごはんに行くからと言ってたびたび貰っていたお小遣いがあるでしょう。それは嘘でした。あたしはそのお金を使って電車を乗り継いで、お父さんに会いに行っていました。母さんは、あたしにそんな力はないと思っていたかもしれない。でもね、調べればなんだってわかる。あたしももう子どもじゃないし、自分の意志で行動を起こすことができます。 検索エンジンで見つけたお父さんの会社は、とてもきれいなビルの中にありました。その中に、お父さんの姿を見て、逃げるように帰りました。本当は話がしたかったのかも、今となってはわかりません。お父さんがあたしの顔をわかるか、自信がなかったのもあるでしょう。 母さんは、あの頃から何かの病気だったのでしょうか。わからないけど、確かに言えるのは、少なくとも娘のあたしは、今、病気だということです。 あたしがあの日侮蔑の目を向けた、母さんと同じ姿に今なってしまいました。お酒を飲むのがやめられない、あの病気だよ。血は争えないって、こういうことを言うんだね。 あたしの頭を撫でてくれた、あの日の母さんにもう一度会いたいです。 今、窓の外の朝焼けがとてもきれいです。あんまりきれいなものだから、涙があふれてきました。この目も指も髪も足も、母さんがくれたものです。名前も。この後裏切ってしまうけど、この、大切な名前も。母さんがくれたものでした。やっぱり死ぬのはやめようかと、一瞬だけ思いました。でも、きっとこのあとあたしは死ぬでしょう。今回ばかりは、そんな気がします。 これで母さんの荷物が軽くなるなら、あたしは幸せです。 もうこれ以上、あたしの記憶の中の、優しく頭を撫でてくれた、あの母さんを壊したくないんです。ごめんなさい。後悔がないかというと、嘘だよ。でももう、怖くないの。あたしの頭の中で、あの日の、ずっと優しい母さんに会いたいの。 先立つ不幸を、お許しください。ごめんなさい。これまで育ててくれて、本当にありがとうございました。あたしのことは笑って忘れて、元気で長生きしてください。 ここまで読んでくれてありがとう。 さようなら。 未来より
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加