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次に彼岸花が咲いたのは日比野さんの家の庭だった。雑草化して茂った怪しげなハーブや黄色いゴーヤの蔓が巻きついたネットを意にも介さず、血のような色をした大輪の花は庭の真ん中にどっしりと構えていた。
塀の隙間からその姿を見た英美さんは、慌ててチャイムを押した。5回目のチャイムが鳴り響いた時、「聞こえてるよー」という日比野さんの声が聞こえた。
「今庭に出てるの。門は開いてるから時間があるなら入ってこない?」
軋む門を押し開くと縁側に腰掛けてぼんやりとしている日比野さんがいた。焦点の定まらない彼女の目に視線が合う。
「こんなことしてる場合じゃないですよ! 花が咲いてるじゃないですか!?」
気色ばんで詰め寄る英美さんに、「ああ、咲いてるね」という気のない返事が返ってきた。ゆっくりと息を吐くような音が続く。もしかしたら笑ったのかもしれない。
「なんでそんなに落ち着いてるんですか!? 早くなんとかしないと……」
「何をするの?」
日比野さんが問い返す。どこまでも空っぽな、虚ろな目をしていた。
「季節外れの彼岸花は庭の持ち主の死を告げる。そこから逃げることはできない。今からじゃ何をしたって手遅れ」
「それでも、それでもまだ何かできるはずです……」
食い下がる英美さんに、日比野さんは、今度ははっきりと笑って答えた。
「それに……もういいのよ。お金もない。うるさかった家族もみんないなくなっちゃった。こんなに広い家も庭も持て余すばっかり。近所に住むあんたたちをからかって遊ぶくらいしか楽しみがない。お迎えが来たって大して困らないわ」
「わたしは困るんです!」
英美さんは叫んだ。目からは涙が溢れ出ていた。
「椎名さんも、日比野さんもいなくなってほしくないんです!」
夫と一緒に縁もゆかりもないこの街に移り住んだ英美さんが、真っ先に仲良くなったのは歳の近い椎名さんだった。向かいの家に賃貸で一人暮らしをする彼女に、安いスーパーもガーデニングのコツも教わってきたのだ。
日比野さんからは……何かを教わることはあまりなかった。むしろ、方角の吉凶や相の良し悪しを「吹き込まれた」と言った方が正しいけれど、あのわけのわからないおしゃべりが消えてなくなるのは、やっぱり嫌だ。
しゃくりあげる英美さんに日比野さんは目をぱちくりとさせ、やがてゆっくりと微笑んだ。
「……あんた、いい人なんだね。でも、残念。もうできることは何もないわ。せめて最後くらいは静かに過ごさせてくれない? 私、騒がしいの嫌いなの」
「……自分は何かにつけて騒いでたくせに」
あなた今日は悪い相が出てるわ! その方角は避けなさい!改めて思い返してみると実にうるさかった。英美さんの表情が泣き笑いに変わり。その顔をしばらく眺めていた日比野さんは真顔になって口を開いた。
「他人の心配してる場合じゃないでしょ。この調子で行けば次に彼岸花が咲くのはあんたの家よ」
英美さんの表情が凍りつく。
「まあ、あんたは若いしまだ旦那もいるし、人生これからって感じだもんね。死にたかないでしょ」
「……どうすればいいんでしょうか?」
「花が咲いた後なら手遅れだけど……咲く前に刈り取ってしまえば間に合うかもしれない。もしくは、さらにその前に引っ越しちゃうか。もちろん、確証があるわけじゃないけどね」
「どうして、自分で試してみなかったんですか!」
「さっき言ったでしょ。私はもういいのよ。生き延びたかったらせいぜい試してみることね」
日比野さんは「さて!」と声を出して手を叩いた。
「そろそろいい? あとは独りを愉しみたいの」
それを境に日比野さんは再びぼうっとした表情に戻った。振り返りながら門をくぐった英美さんに目を向けた彼女は最後に小さく手を振った。
その日の夜遅く、突如として救急車のサイレンが鳴り響いた。初めは遠くの方で聞こえたその音は反響しながら段々と近づき、英美さんの隣の家に停まった。心臓の発作で日比野さんが運ばれ、そのまま病院で息を引き取ったとのことだった。
英美さんはそれをしばらく経ってから知った。悟ったような顔をしていた日比野さんが、倒れる間際に自分で救急車を呼んだのか。訊ねてみようにも、その相手はもうどこにもいなかった。
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