【第一話】地下茎

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 季節外れの彼岸花のことを英美さんは誰にも言わなかった。ただ、一度夫の飯田さんに引っ越しの提案をしたことはある。 「一体、何を言ってるんだい。30年ローンを組んでこの家を買ってから半年も経ってないよ?」  怪訝な顔をして飯田さんは訊いた。穏やかな口調のそこかしこに、苛立ちが顔を覗かせていた。英美さんはそれ以上、この話を続けることはしなかった。 彼はすごく合理的な人だから、死を告げる彼岸花のことなんて信じないに違いない。近所で立て続けに人が死んでいることなんて気にも留めてないだろうし、知ったところで「偶然の連鎖」だと片付けることは目に見えていた。英美さんは心に決めた。もう誰も頼れない。わたしが自分で何とかしないと。  その日が来ることはずっと覚悟していた。それでも、実際にそれを目にした英美さんの背筋は氷のように冷たくなった。色とりどりのベコニアやかすかな風にも大きく揺れるコスモスに混ざって、一本の異様に太く背の高い茎が生えている。悪い冗談みたいに鮮やかな黄緑色をしたそれは、先端につくしのような形をした苞をつけていた。  英美さんは庭の物置から草刈り鎌を持ってきた。この日のために用意していたものだ。左手で茎を押さえて根本から刈り取る。  どさりという音と一緒に地面に倒れた。ずっしりと重い感触がした。英美さんは彼岸花の生えていた辺りに目を向ける。この庭の下に地下茎が残っている限り、これで終わりではない。また生えてくるだろう。ならば茎を伸ばして花をつける前にまた刈り取ってしまえばいい。それを毎日欠かさず続けていけば、この花で命を奪われることは永久にないはずだ。    翌日、既に英美さんは自分の甘さを思い知った。朝、カーテンを開けて庭を見下ろすと昨日とそっくり同じ場所に彼岸花が茎を伸ばしていた。一つだけ違うことがあった。昨日よりも背丈が伸びていた。もちろんすぐにまた切り倒した。  けれど、その次の日も彼岸花はもっと大きくなって苞をつけていた。英美さんが切り倒しても切り倒しても、それを嘲るかのように翌日にはもっと大きくなって茎を伸ばしている。  そんなことが数日続いた。彼女が終わりのない追いかけっこに疲れ切った頃、既に膝上まで成長した彼岸花は遂に花を咲かせた。英美さんは呆然として真っ赤な花を見つめる。全部、無駄だったのだろうか? 結局、わたしもこの花に命を奪われてしまうのか?   いや、まだ終わりじゃない。確かにこの彼岸花は強情だ。何度刈り取ってもしつこく茎を伸ばし、花をつける。日比野さんの言っていた通り彼岸花は地下茎で増えるからだ。土の上に出ている部分に手を打ったとしても問題は何一つ解決していない。庭の下にある地下茎、それも含めて二度と生えてこないようにしないと。文字通り「根絶やし」に。  英美さんは物置の奥から灯油ケースを持ってきた。中に入っていたのはケースの下三分の一くらい。去年の冬、ストーブに使った分の残りだ。  それを花の周りに撒いた。隙間ができないよう念入りに撒いた。空っぽになって軽くなったケースを放り投げると、英美さんはくすくす笑った。これで全部終わる。目の前の忌々しい花もそれにつながる地下茎も、みんなまとめておしまいだ。どうして今まで思いつかなかったんだろう。こんなに簡単なことだったのに。  英美さんは100円ライターに火を付ける。飯田さんが煙草を吸うのに使っているものだ。勝手に使ったら怒るかもしれないが、今はそれどころじゃない。全部終わったらもっといいものをプレゼントすればいい。きっと許してくれるだろう。  丸めた新聞紙に火をつける。灯油を浴びててらてらと鈍い光を放っている彼岸花。英美さんはそこを目がけて紙の玉を放った。瞬く間に真っ赤な火柱が立ち上った。  立ち上った火柱はなかなか花に燃え移らなかった。炎は風に煽られて空へと伸び、ゆらゆらと揺れているだけだ。そこからこぼれた火花が庭のあちこちに散っていく。肌にひりつくような熱さを感じながら、英美さんは焦っていた。 話が違う。どうして火が付かないの? 早く始末をつけないといけないのに。この花が椎名さんや日比野さんのように、わたしに死をもたらすのは一秒先のことかもしれないのに!   火花から火がついたのか、庭のあちこちでベコニアやコスモスが燃えていた。それでも、まだ花に火はつかない。何が足りない? 灯油だろうか。だったら、全部使い切ってしまった。新たに買ってこなくてはならない。それとも火……火が足りないのか!  英美さんは再びライターに火をつけると、火柱の中心に放った。ごうっと低い音がして、火柱が一際太くなった。これまで、炎の影ですまし顔をしていた彼岸花に異変が起こった。花びらに、茎に一瞬で火が回った。ぱちぱちという音を立てて、黒い煙を上げている。草が焦げる時の匂いがした。ああ、よかった。これで終わった。もう怖がらなくていいんだ。英美さんが安堵のため息をつく前に、炎は彼女の全身を包んでいた。
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