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別れ
ひとすじの風が、彼の前髪を揺らすのが見えた。王子弟は、笑ってノバラに振り向こうとしたが――
もう、ノバラは彼を見ていなかった。
背後から強い力で肩を押さえつけられ、体重をかけられ、ノバラはその場に伏せていた。
「おとなしくしろ、侵入者!」
床に敷き詰められた茨に埋もれ、息が詰まり、言い訳すらもできなかった。
早く逃げて……
逃げて、王子弟!
ノバラは胸中で何度も念じる。
遠くから、警備兵の叫び声が聞こえた。
「弟がいないぞ!」
「部屋はものぬけカラだ!」
ノバラの傍にいた十数名の警備兵たちは、一斉にざわめき立った。ノバラを抑えている二名以外はすべて、王子弟の捜索に回った。
少しだけ肩の拘束の力が弱まる。
ノバラは背骨を反らして、なるべく顔を高く上げた。
天窓は、開け放したままで、風だけが入り込んでいた。
あの子の姿は、なかった。
「どうなってるんだ。弟が……逃げるなんて」
警備兵はハッと気づいて、ノバラを仰向けにさせると、首もとを掴んで揺さぶった。
「おい、お前か? お前が逃がしたのか?」
怒鳴り声は耳の表面をかすっていった。
疲弊した身体で、ノバラはぼんやりと王子弟のことを想っていた。
鳥かごから飛び去った小鳥のように、誇らしく扉が開け放たれたあの部屋に、あの子はもういない。そこにはただ、無音の空洞があるばかりだ。
よかったね。
さよなら。
名前すら持たない、孤独な、王子さま。
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