熟成ぶどう

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「こちらは二十年前に作られたワインでして、いわゆるヴィンテージワインと呼ばれる物です。この年は当たりと言われており、人気も希少性も高い。記念日のような節目にはピッタリの一本です」  店員はそう言いながら埃ひとつ被っていないワインの瓶を和也に差し出す。  二十年前の物と言いながら全く劣化している様子はなく、丁寧に保管されていたのが窺えた。  二十歳になったばかりの和也にとってそのワインはかなり高額だが、どうしてもこれを買おうと心に決めている。そのためにわざわざこの酒屋に取り寄せてもらっていた。  和也がまじまじとワインを眺めていると店員は表情を覗き込みながら問いかける。 「状態に問題がないか確認していただけますか?」 「あ、はい、大丈夫です。えっと、プレゼントではないのですが包装ってしてもらえますか?」  和也がそう答えると店員は優しい笑顔で頷いた。 「かしこまりました。包装紙やリボンを選んで頂きますのでこちらへどうぞ」  店員は和也をサービスカウンターに導く。  どうやら他のワインも包装していたようで、既に様々な包装紙が並んでいた。和也はその中から自分好みのものを選びワインを購入する。  酒屋を出た和也は細長い紙袋に入ったそれを大切そうに抱き、自宅へと向かった。 「喜んでくれるといいけどな」  少し不安そうに呟く和也。  その言葉からは想像できないが今日は和也が二十歳になる誕生日だ。  では何故、和也自身が高価なワインを購入したのか。その理由は和也の父、京太郎との関係にある。  物心ついた頃から和也に母はおらず、その代わりに京太郎は厳しく和也を育てた。今でこそ感謝をしている和也だが、幼い頃は憎しみすらも覚えたほどである。  その為、和也と京太郎の心はかなり離れていると言っていい。  しかし、二十歳になる今日、和也は京太郎への感謝を伝え親子関係を修復しようとしていた。  飲酒が解禁になる今日この日、和也は自分と同じ年齢のワインを京太郎と飲むことで二十年の溝を埋めようと考えている。  午後七時。自宅に着いた和也はまだ京太郎が帰ってきていないのを確認しリビングのソファに座った。 「父さんはまだ帰ってきていないのか。そうか・・・・・・誕生日も忘れているのかな」  和也は少し不安そうに呟く。  それほどまでに京太郎は自分に興味がないのかもしれないと思えてきた。  思い返すとこれまで誕生日を盛大に祝われたこともない。  まるで心に重石が乗っかったようにズンと和也の表情が曇る。  ワインを飲むのはまたの機会にしようか、とソファから立ち上がった瞬間、玄関のドアが開く音が響いた。  この家に入ってくるのは一人しかいない。和也は明るい表情を作り、京太郎を待ち構える。  足音に耳を澄ませていると京太郎がしかめ面でリビングに入ってきた。 「なんだ、リビングにいたのか。珍しいな」  京太郎はネクタイを緩めながらそう吐き捨てる。実にぶっきらぼうな言い方だ。  だが、和也は今日を境に京太郎との親子関係を修復しようと決めている。優しく微笑み京太郎を迎えた。 「おかえり、父さん。ほら、今日は・・・・・・その。えっと」  相手は父親だというのにうまく言葉が出てこない。いや、父親だからこそうまく言葉が出てこない。  するとネクタイを外し終えた京太郎はため息をつきながら聞き返した。 「なんだ?」 「あのさ。今日は何の日かわかる?」 「・・・・・・誕生日だろう。お前の」  少し面倒そうに言いながら京太郎はネクタイをソファの上に投げ捨てる。  知っていたのか、という驚き寄りの喜びと知っているのにか、という薄い悲しみが和也の心の中で渦巻いた。  しかし、今日の和也はめげない。京太郎の言葉を受け入れるように頷き話を続ける。 「そう、今日で二十歳になったんだ。それでさ」  そこまで和也が口にすると京太郎はドシッとソファに座り言葉を割り込ませた。 「二十歳か。私から贈る言葉がある」  京太郎の口から出た突然の告知に良くも悪くも期待する和也。  おめでとう、だろうか。  大人になったな、だろうか。  一緒に酒を飲める日が来たな、だろうか。  二十歳になったのだからこれからは一人で生きていけ、だろうか。  そんな想像が一瞬で頭をよぎる。  しかし京太郎の口から出たのは想像もしていなかった一言だった。 「お前は私の息子ではない」 「え・・・・・・」  それ以上の言葉は出なかった。予想外の情報解禁に理解が追いつかない。  言葉の意味は和也も理解している。しかし、頭がその言葉を拒絶するかのように飲み込めなかった。 「それってどういう」 「お前と私に血の繋がりはないということだ」  和也の理解を待たずに京太郎は言葉を続ける。 「お前が幼い頃から二十歳の誕生日に言おうと思っていた。もう理解できる年齢だろうからな。お前は」  京太郎は淡々と説明を続けるが和也の感情はそこでマイナス方向に振り切った。  そうか、息子じゃないからあれほど厳しかったのか、とある種の納得もできる。  和也は京太郎の言葉を遮るように感情を吐き出し始めた。 「厳しいのは愛してくれているからだと思っていたよ。悲しい思いもした、苦しい思いもした・・・・・・けれどそれが父さんなりの愛情だと思ってた。僕がしっかりとした人間になるために厳しく育ててくれたんだと・・・・・・息子じゃないから! 愛情なんてあるはずなかったんだ!」 「違う」 「何が違うんだよ! じゃあ、どうしてこれまで誕生日も祝ってくれなかったんだ。どうしてここまで厳しくしたんだよ」  京太郎の言葉に聞く耳を持たない和也。一度溢れ出した感情は止まらなかった。 「どうして愛情もないのに血の繋がらない息子を育てたりしたんだ。それならいっそ」  言ってはならない言葉を言おうとしている。それは和也にもわかっていた。しかし、感情が理性を通過せず言葉を吐き出す。  それを止めたのは京太郎の抱擁だった。  強く熱い抱擁。そんなものは和也の記憶にない。幼い頃から抱擁なんてされたことはなかった。  突然のことに感情が乱れ困惑する和也。  すると京太郎はこれまでにないほど優しい表情を浮かべてから口を開いた。 「和也、お前は私の親友の息子なんだ」 「え?」 「お前の両親は十九年前に事故で・・・・・・両親とも重症で病院に運ばれたが助からなかった。その最期を看取ったのが私だよ。その時、和也を頼むと託されたんだ。親友の最期の頼みを断るわけがない。だが託された以上、私にはお前を立派な人間に育て上げる義務がある」  その言葉を苦しそうに吐き出す京太郎。  まだ状況を飲み込めていない和也は聞いた言葉をそのまま繰り返す。 「・・・・・・義務?」 「勘違いするな、和也。育てていたのは義務ではない。私がお前を・・・・・・親友の息子を引き取りたいと思っただけだ。お前の成長は私の責任だという意味だよ。そしてお前はしっかりとした大人になった。今のお前をアイツが見たら泣き出すんじゃないかな」  そう言いながら京太郎は和也の父を思い出し、うっすらと涙を浮かべた。  ようやく理解が追いついてきた和也は記憶にある厳しい父ではなく目の前の京太郎と向き合う。 「だから父さんは厳しく・・・・・・」 「ああ、そうだ」 「じゃあ、誕生日は? そこまで想っててくれてたのなら」 「お前の誕生日はな、アイツの・・・・・・お前の両親の命日なんだ。一歳の頃の記憶なんてあるはずもないお前が誕生日になると泣き喚く・・・・・・可能な限りこの日に触れないようにしていたんだよ」  京太郎が説明すると和也は複雑そうな表情を浮かべて俯いた。  そんな和也の様子を見た京太郎は少し悲しそうに息を吐き出す。 「ふっ・・・・・・そうだな。全ては言い訳にすぎない。私は自己満足のためにお前を引き取り、父を名乗り続けた。誕生日のことも厳しさもお前からすれば苦しく悲しい記憶だろう」  和也の記憶にある父とは違い、京太郎は素直な気持ちを言葉にした。  そこにはこれまで感じていた親子間の距離など存在せず、青臭い言葉で表現するならば京太郎の心が見受けられる。  京太郎は二十年間隠していた罪を懺悔するような気持ちでいたが、和也が受け取ったのは不器用な愛だった。 「じゃあ、父さんは本当の父さんとの約束を守るために?」 「お前はそんなことを考えなくていい。私を憎んでいいんだ。それでも私はお前が立派な成人になったことを誇りに思う」 「父さん・・・・・・」  過去の感情をなかったことになどできない。  現在は全て過去の積み重ねである。そして積み重なるのは負の感情だけではない。  和也は唐突に様々な記憶が噛み合っていくのを感じた。  京太郎が厳しかったのは全て常識を身につけるべき場面であったこと。好き嫌いが許されなかったのは健康のためであったこと。和也が熱を出した時、慌てふためき感情的になっていたこと。和也の誕生日では毎年悲しげな表情を浮かべていたこと。  その全てがたった今、噛み合った。 「父さん・・・・・・僕・・・・・・ごめん」  和也は感情を上手く言葉にできず、そう呟くように口にする。  そんな和也を見た京太郎は彼の肩に手を置いて首を横に振った。 「いや、悪いのは私だ。自分の理想を押し付けてしまっていたのだからな。だが、それも今日で終わりだ。もう私を父と呼ぶ必要はない」  そう言ってから京太郎は立ち上がり、玄関の方へ向かう。  どうしたのか、と和也が目で追いかけると戻ってきた京太郎の手には見覚えのある包装紙が握られていた。 「父さんそれ・・・・・・」 「ああ、これは今日のために用意したワインだよ。お前が生まれた年のワインでな、当たり年と呼ばれているんだ。この話をした後に二人で飲もうと思ってな」  どうやら和也と京太郎は全く同じことを考えていたらしい。  驚きを隠せない和也と何故和也が驚いているのかわからない京太郎。  和也は何も言わずに自分の買っていたワインを取り出した。  京太郎の持つ包装紙と全く同じそれは二十年間を共に過ごしてきた確かな絆を表しているように思える。   「和也それって・・・・・・」 「うん、多分全く同じものだよ」  照れ臭そうに和也がそう言った。  そういえば酒屋で他の物を包装していた形跡があったのを思い出す。  すると京太郎は包装紙を剥きながら微笑んだ。 「ふふっ、同じことを考えていたようだな。この二十年の時間を・・・・・・熟成された酸いも甘いも共有しようと思ったんだ」 「僕もだよ。二十年間の感謝のつもりで・・・・・・飲酒が解禁になる今日、どうしてもこれを飲みたかったんだ・・・・・・父さんと」 「まだ・・・・・・父と呼んでくれるのか」  問いかけてくる京太郎に笑みで返した和也は用意していたグラスを二つ用意する。  何も言わずに自分の買ってきたワインを開け、京太郎のグラスにそれを注いだ。 「父さんは父さんだよ。今日からまた親子を始めればいいんだ」  それが和也の答えである。  今日解禁されたのは飲酒でも情報でもなく親子の愛情だったのかもしれない。
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