室の外の悪魔たち

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室の外の悪魔たち

・ ・ ・ 僕が阪急梅田駅で降りて、 仕事場に向かおうとしていたところ、前方の方に見覚えのある女性を見かけた。 それは、間違いなく曽根山高校の同級生の青木さんだった。 特徴的な目尻と鼻筋を持ちながら、バランスの良い顔立ちで、はっきり言って美人と呼ばれる風体だったので、すごくモテていたのを覚えている。 高校二年生までは、同じ演劇部に所属していたから仲良くしていたのだが、「あの事件」があってからは僕の方から距離をとっていた。それきり、彼女とは全く話さなくなっていた… あぁ、懐かしいな…今僕らは24歳だから卒業して6年になるわけだ。久しぶりだけど、いっそう大人びてまさに垢抜けたって感じだ。少し話してみたい気もする。 ほら、プチ同窓会を今度しよう的な… だけど、僕は陰気だから声をかけるなんてできない。少なくとも自分から青木さんに声をかけ 「日高くん?だよね?」 「えっ」 前方にいた件の女性は、いつのまにか私の右側に移動していた。 「ほら、曽根山高校の。演劇の!」 「や、えっと、うん。久しぶりだね、青木さん」 「やっぱりそうだ!定期落として拾ってたら、日高くんっぽい人とすれ違った気がして」 そうか、思いふけっている間に…しまったな。 「高校以来だね、青木さん。まさかこの駅を使ってるなんて知らなかったな」 「私も!そうか…お互い会社員になっちゃったってわけだね。なんか日高くんをみて、あぁそういえば私演劇部だったなぁって思い出したよ」 「僕もさ。なんか懐かしいね」 あの事件の話題には触れたくない。早くどこかに行って欲しい。 「今日の夜さ!空いてる?」 「うん?きょうって今日?」 「うん。今日。仕事終わった7時からさ、喫茶蛍池でお茶しない?」 「ほ、蛍池っていつも部の打ち合わせで使ってた…あの?」 「あの」 嫌な予感がする。 「日高くんとマリやんとりなちとさ、よく行ったじゃん。あそこ。 あそこって実は夜はお酒もあるって知ってた?そこでさ、プチ同窓会しようよ!」 「え、あ、うん、いいね」 今、全て思い出した。 「おっ!乗り気だね、いいねっ」 やめろ。僕。 「じゃあ、7時にそこで!もし遅れそうならLINEしてね!アカウント変えてないから。じゃあ私JRだから。」 「あ、ごめんやっぱり」 そう言い終わる前に、そそくさとJR方面に行ってしまった。 なんてことだ。よりにもよって喫茶蛍池…あの事件があった所だ。あの事件のこと、封が切られたように思い出した。 彼女、覚えていないのか? … …うん。 …よし。ここは、やるしかない。 …高校の時に刻まれた心の傷。 …清算するときがきたようだ。 …遺書を書いておこう。 ・ ・ ・ 上司の体調が悪くなったので、今日は定時で帰ることができた。このまま直帰してもいいが今夜は約束がある。 阪急宝塚線に乗って、蛍池駅で降りて、喫茶蛍池へと向かう。なんだ、意外と道、覚えてるんだ。 時刻は6時37分。 ついたとLINEを入れて、空いてる席を探す。いつもはガラガラなのに今日は何故か繁盛しているようで空いてる席はたった一つだけのテーブル席しかなかった。 くそっ。よりによってこの大通りの窓際の席じゃないか!いつもの席、打ち合わせをした席、打ち上げをした席、そして…あの事件の始まりの席。 今日はかならず、話題を将来の話に限ってしなきゃならない。思い出させてはならない。扉を開かねばよいのだ。 入り口のベルが鳴った。 「ごめん。まった?」 「あぁいや、大丈夫。仕事のメール返してた所なんだ」 「そかそか、ってか懐かしー!この席いつものとこのじゃん」 「そうだね。ここしか空いてなかったんだ。なんか、偶然。」 「ふふ。懐かしいね。1.2年の放課後はずっとここにいた気さえする。何で皆あんな熱中できてたのか今となってはよく分からない」 「僕もそう思う。りなちがいつも面白い脚本を書いてきて、みんなでそれを読んで解釈を…」 しまった! 言ってはいけないことを3つも並べて言ってしまった! 「りなち」「脚本」「解釈」 この3つは今、一番青木さんに言ってはいけないことだったのだ。 やってしまった。セーフか? いや、だめだ。 恐らく封は開かれた。 「…」 「…青木さん」 「私、最低だ。」 「…」 「今、思い出した」 「…うん」 「日高くん、私のこと恨んでる?」 「…いや、恨んではない。青木さんこそ、僕のこと」 …殺したいんじゃないの? 「…いや、日高くんを責める気持ちなんて無い。 あれは私から始まって私で終わった悪なんだ。日高くんは私が巻き込んだ。 …もう、私、結婚するとしたら日高くんしかいないね」 「僕はしたくない」 「するとしたらってことよ。何せ私らは普通の中には戻れない。学生時代を生きていくために封じられた記憶が今互いにこじ開けられた」 「…そうらしいね」 「ここを出ましょう。気持ち悪くなってきたの」 「わかった。」 そう。あの事件。いや、曽根山高校生徒行方不明事件。 高校2年生の夏に、花江理奈と山尾真莉が突如行方不明になった。そしてその事件の犯人は僕らなのだ。 行方不明ではない。僕らが殺して死体を遺棄した。 「ここだね」 ここは喫茶蛍池の2階。 カラオケパラダイス蛍池店の102号室。 カラオケパラダイスは2000年初期に営業不振で事業者が夜逃げして今でも解体撤去することができずにいる廃墟なのだ。施錠キーが裏のコンセントボックスにあることを僕らは知っていた。 「ここで、りなちとマリやんを…」 「バラバラにした」 そうだ。 あれは、台風が近づいて豪雨と雷が町を襲った日だった。 深夜まで僕らは4人で次の劇「取調室の男」の打ち合わせで話し込んでいた。深夜11:00に、僕が親に連絡を入れに店の外に出て、帰ってきた時には議論は白熱の更に上のボルテージになっていた。 青木さんは、りなちと脚本の解釈で声を荒げて揉めていたし、マリやんはそもそも劇をやりたくないと言って聞かなかった。 僕が帰ってなだめても女性同士の喧嘩に男が入ることの無意味さを知るだけだった。 マスターが僕らを12:30に追い出したが、僕らの熱は治らず2階のカラオケパラダイスで、続きを話そうということになった。防音の部屋で議論を続けていくうちに、目眩に襲われた。 本来カラオケボックスは機械空調設備によって換気が行われなければ、すぐに酸欠状態に陥ってしまう構造になっている。明らかに電気が止まっているカラオケボックスは、定期的に空気の入れ替えをしなくてはならない。 やがて、窓が開けられる102号室に移って、議論は続けられた。僕らのの議論ははっきり言って支離滅裂だった。 演劇のこと。友人としての不満。しまいには、僕にりなちが好意を抱いていたこと、それを青木さんが邪魔していたこと。マリやんが2人の悪口を言いふらしていたこと。議題は転々と移り次々と明かされる情報に4人は錯乱し、暴力を伴った修羅場になっていった。 そこから先はよく覚えていない。 覚えているのは口と胸から血を流して倒れているりなちと、泡を吹いて横たわるマリやん。それを見つめる青木さんと僕だった。 僕らは、お互いにメンタルケアをした。僕らは悪くない…悪くない…誰も悪くなかったんだ… 遺体はバラバラにして近くの竹藪に埋めた。絶対にバレそうにない枯れ井戸に遺体を投げ入れて、土をかぶせた。 そして脚本「行方不明の女性生徒達」を作り、僕らは被害者の友人という役になった… 「まさか」 「忘れるだなんて…」 彼女が忘れていたのにも驚いたが、僕自身が忘れていたのにはもっと驚いた。こんな悪魔の行為を忘れるだなんて! 「実は僕も忘れていた」 「今朝、君に駅で会うまでは」 そう。りなちと喫茶蛍池で記憶が蘇ったのだ。 そして、多分今日僕は口封じに殺される。 「日高くん」 「やっぱり私たち結婚しない?」 なんだって? 「なんだって?」 「今結婚って言ったのか…?」 「そう、結婚。 私たちの苦しみは私たちしか慰め合えないし、癒せない。 これから全てを隠して生きていくなら、忘れるか、舐め合うかしかない。私なら、あなたと共に闇を背負える。 手を取って地獄へ逝ける。」 彼女の目が青く光っているように感じる。 「あの夜、日高くんが僕らは悪くないって言ったでしょ。あれ、実は嬉しかったんだよ… 僕じゃなくて、僕ら。 私、あの後努めて記憶を消そうと努力したけど、あの言葉だけは頭に残り続けた…誰の言葉かわからなくなったとしても。」 微笑みながら彼女は続ける。 「だから」 「今ここで」 「契りましょう」 「それは…嫌だ」 「そう…」 彼女の左手にナイフが光る。 僕は心臓が跳ねる前にカラオケボックスから飛び出した! 彼女が続いてダンッと飛び出た音がして、さらにドクンと血が逆流した。振り返ると殺意に満ちた顔でナイフを握りしめてスプリンターのように追いかけてくる青木美奈の姿があった。 「うわあああああ!!!!!!」 思わず叫びながらカラオケパラダイスの外に出る。しかし、彼女はもはや証拠隠滅などどうでもいいらしい。 僕を殺すということだけを考えて、僕の心臓に刃を突き立てることだけを考えていることが、彼女の表情から見てとれた。 共用階段を駆け降りて道路に飛び出ると、不思議なことに8時ごろにも関わらず誰もいなかった。 そして振り返った… 彼女がナイフを振り下ろすフォームで僕に襲い掛かる。 僕はなんとか彼女の左手をキャッチし、刃から身を離すことに成功した。 すると、彼女は何故か途端に脱力し、力が抜けるように後方に倒れていった。そして刃は僕が彼女の左手を掴んだまま、彼女の腹に突き刺さった。 「きゃああああああ!!!!!」 悲鳴は喫茶店の中から聞こえた。夢中で気づかなかったが、そういえばここは喫茶店の前の道路なのだ。 そして、客観的にみて僕は今、女性を馬乗りでナイフで刺した男なのだ。 その事実に何故か猛烈に目眩を感じ、真っ白な世界に包まれた視界と共に地面が僕の後頭部を叩いた。 ・ 「それで?」 「共犯者からの婚約を拒否した所、殺害されそうになって、反撃して刺してしまったわけですね」 僕はうなずいた。 「うーん…被害者…この場合被疑者でもあるわけですが… 彼女の供述も聞いて裏付けをとらんと信用はできませんね」 ハマダというこの刑事は僕の話を真実という前提で聞いてくれるみたいだ。僕は付け加えた。 「あの…ですから、7年前の行方不明の事件も僕が殺して彼女に手伝ってもらったって言うことなんです。だから、主犯は僕です。」 「あぁ、そうですか。わかりました。 とりあえずこれで本日の取り調べは終わりです。また明日続きをやりましょうか」 「はい…ありがとうございます」 これで終わりか。なんだか心が軽くなったみたいだ。 頑張って忘れていても、無意識に罪のストレスがかかっていたみたいだな。 今日はゆっくり寝れそうだ… ・ ・ ・ 浜田刑事は、取調室隣接のマジックミラー室の扉を開けた。中には目尻と鼻筋が特徴的な美女がいた。 「あなたが他称アオキミナ…さんですね?」 「…」 「心中お察しします」 「…あなたがた警察はこの状況が正常だとお思いですか」 「あ、いえ、その…いえ、思いません」 「…言いたいことは山ほどありますが、一つにまとめるなら…」 「この男は初めから最後まで何を言っているの?」 「そうですよね… それがこの話を聞いた誰もが抱く素直な感想です。私も含め。 この男は、自称ヒダカミコト。職業不明。年齢推定30歳くらい。 住所もなければ、戸籍も照合するものもない。 彼は自分自身が何者かを理解していないんです。」 刑事は続ける。 「そして、彼には世界を認識する能力が欠けている…と言わざるを得ない。 彼が言った、ハンキュウウメダエキ、トネヤマコウコウ、ジェーアール、タカラヅカセン、キッサホタルガイケ…全て存在しない出鱈目な言葉だ。 それに加えて、存在しない行方不明事件の犯人を自分だと言い始めた…」 女性が眉をしかめる。 「この人物があなたと接点があったかどうかもわからない。ただ我々警察はあなたに危害を加えたことだけは、何があっても必ずあの男自身に罪を償わせる所存です。」 女性がお腹をさすりながら言う。 「そうですね…彼は、おそらく私のストーカーでしょう。何度か家の外で見た気がします…。 さらにはこんな妄言を聞かされて気分がひどく悪い。 いうなれば私にとってあの男は現実の外からきた悪魔です。私の現実を改変し、己の現実を改変する。 …強いて言うならナイフと傷だけが、事実と妄想の交差点足りえると言った所でしょうか」 「いやはや…詩的ですな。 ともかく、大事に至らなくてよかった。 嫌な気分にさせたことは申し訳ありませんでした…今日はゆっくりとお休みください。 また後日あなたのお話も聞かせて頂きたく思います。その…改めてなのですが…他称ではない…お名前を聞いても?」 女性は言った。 「私は…日高美琴…というものです。」 ・ ・ ・ 私は、なにわ東西線豊臣駅で降りて仕事に向かっていた。 いつもより一本早い7:54分着の急行から降りて改札へと向かう。 今日は広告のデザインの納品日で、尚且つ子どものひびき幼稚園の面接日だった。 旦那も仕事は休めないらしいので私が行くしかない… はぁっとため息のつきたくなる様なスケジュールだった。子どものことは愛している。だが、私のキャパシティはもともと仕事でいっぱいなのだ。 あの上司、“日高さんなら”と言いながらプロジェクトを任したくせに、新入社員の女の子にばかり美味しいところを回して私を除け者にしやがって… 最近貧血気味だし…ほんっともう… あ、ダメ、少しイライラしてるかもしれない。 明日は有給を取ろう。 そう決めて鞄から定期を出そうとした時、勢いよく出そうとしたせいか、左後方に定期入れが吹っ飛んでしまった。 しまった。 そう思って人の流れに逆行しようとしたところ、ある男性が私の定期を拾った。 私はその顔を見た瞬間、恐怖した。 彼はおそらく明石大学時代の先輩、氷室コウタ。 氷室先輩は大学のサークルの先輩で、はっきりいって評判の悪い男だった。 デッサンサークルで定期練習会には来ず、裸婦のデッサンと飲み会だけにしか顔を出さないので、彼の評価を落とすには十分だった。 顔は整った塩顔で一部の女子からは人気があったみたいだが(私のタイプではない)、 とにかくモラルがない。 私も飲み会でセクハラまがいのことをされたことがある。 「日高ちゃんはさぁ〜デッサンモデルとかやらないの? 絶対映えると思うんだけどなぁ…美人だし、それに肌白いし」 「いえいえ、私はそんな…やりませんよ」 「ヌードとかさ!やるとサークル会員増えるんじゃないかなぁ」 「ふふ、セクハラですよ!やめてくださいよ〜」 笑顔で誤魔化したが、ビール瓶で殴りたい気分だった。 容姿や風体をどうでもいい他人から評価されるのは苦手だし、口にするやつは死ぬほど嫌いだ。 てか、今考えるとセクハラじゃん。 そんな氷室先輩は、私が2回生の頃に上回生ともめて、大学を辞めた。そもそも留年しそうだったと噂で聞いたことがあるが、サークル内で起きた「ある事件」が警察の介入にまで至り、大学側から圧力がかかったことは周知の事実だった。 でも、その件に関しては私も当事者だ。「ある事件」には私も少なからず関わっている。 この男には二度と会いたくなかった… なぜ、この男が豊臣駅に… 「これ、どうぞ」 差し出された定期を足元を見ながら受け取る。目線を合わせないために、前髪で顔を隠すために… 「ありがとうございます」 何も不自然な点はない。私は踵を返して改札へ向かう。 「ちょっと!日高さんでしょ!」 何も聞こえない。私は高校以来初めて全速力で走った。 ・ ひびき幼稚園の面接が終わって、ドッと疲れを感じた… 多分今朝の最悪の出来事もあるだろうが、仕事もまぁまぁ上手くいかなかったからだろう。 クライアントがいい人という点を除けば、人がやりたがらない案件には違いない。 納品できなかった上に、部下2人が明日有給を使うというので明日は出社しなくてはならない。あの嫌味ったらしいオーディナルデザイナーにも借りを作った形になる。 最悪だ。 子どもの顔を見れば疲れが吹き飛んだのは一年前までの話だ。母性を使い果たしたわけじゃないと信じたい。旦那は今日も12:10に帰ってくるのだろう… 嫌な思考の流れだ。今日は久々にお酒を買って帰ろう。 “ほぼよい”の阿波すだち味が出たって若い子が給湯室で話してたな…それにしよう。今の私には自分自身への労いが必要なのだ。 喫茶虫也(チーミャ)の横の大通りを抜けてまっすぐ行けばマンションに着く。近くのエイトテンでほぼよいは買えばいいか… ふと顔を上げると、男が目の前に立っていた。 私は全身の毛穴が開いた様な感覚に襲われた。鳥肌なんてもんじゃない!とにかく人生最大の恐怖… 氷室先輩の目が青く光っていた。 そして、かすかな月光に照らされるのは左手に持ったナイフのようなもの。 彼はちょいちょいと右手でジェスチャーをした。 小脇の路地に来いと言っているのだろう。私は抵抗の意思など微塵もなく、彼と共に闇に身を隠した。 「やっぱり日高ちゃんだ」 「はは…どうも」 「あ、ごめん、この刃物さ、家でフルーツを切ろうとしてて、さっきダイソロで買ったんだよ! なんでパッケージ向いちゃってたんだろ!怖かったよね笑」 「あ、そうなんですね…」 もはやあいつも私も何を言っているのかわからない。 「いやーそれにしても久しぶりだ! 大学以来だね!サークルでたくさんお話したなぁ」 「そ、そうですね!いやぁ…懐かしい」 今私いくつだっけ…29か。 「卒業して7年ですか…またみんなで同窓会でもしたいですね。」 「おっ!いいね!だけど、雛山とか早苗とかは呼ばんでくれよ?あいつらは会話ができんし、なにせノリが悪い!」 「はは…部長たちは真面目でしたもんね…」 「そう!あん時も…」 まずい。「あの事件」に触れる。 扉を閉じなければ。 「あの!また今度同窓会私開きますよ!CODEのID教えてくれたら、また連絡します」 「あぁごめん、今俺お金なくってさぁ、CODEやってないんだよね…電話番号聞いてもいい?」 「あー…すみません。私もCODE以外さっぱりやってなくて、電話番号を忘れちゃいました…」 「あぁそう……………そう…………困ったね」 ふう…今は早くこの場を離れなくてはならない。 だらだらと流れる汗にも勘付かれる訳にはいかない… この男は…まだ完璧には思い出していない。 「雛山……CODE………日高ちゃん…」 「………ヴィーナス・ドライバー……!」 私は心臓が跳ね上がった。 ヴィーナス・ドライバー。それは明石大学で起きたある事件の名前。正確には私たちの間で形成された大麻密売システムだ。 無料SNSのCODEで特定の暗号で連絡を取り、第三美術室のミロのヴィーナスの土台に隠した大麻を密売するというシステム。 その運営組織こそが氷室先輩を筆頭とするデッサンサークルのメンバーで構成されていたのだ。 ヌードデッサンの時は外部のひやかしが来ることから、取引は中止されていたので顔を出せていたことを私は後から知った。 ミロのヴィーナスは比較的不安定な彫刻であるため、運搬はデッサンサークルに一任されており、それを利用した隠蔽工作は判明を困難なものにした。 だが、私が二回生の冬に、ヴィーナス・ドライバーは世間の明るみに出ることになる。 それは、部長継承の飲み会の時だった。当時部長だった氷室先輩から、雛山君に部長と“仕事”を継承するときに、事故が起こった。 雛山君は高校では生徒会をやったことがあるくらい真面目な人間だったのだ。彼は初めこそ芸術との乖離を指摘するだけにとどまったが、議論が進むにつれ、激しく先輩を罵り警察に言うと言い出した。 そして、彼は組織幹部から暴行を受け、全治3ヶ月の大怪我を負ってしまったのだ。 事態の全容を雛山君から聞いた大学側は大スキャンダルを恐れて、責任を全て氷室先輩に押し付ける形で彼と取引を行ったらしい(おそらくお金のやり取りがあったはず)。 実際、ヴィーナス・ドライバーは彼一人の悪行という報道がなされたし、それにしては彼の実刑は短かった。彼は大学を辞めたその後は、その取引のお金で生きているらしいとみんな噂していた… そして…わ、私は…くっ… 私は、そのヴィーナス・ドライバーで数回、大麻を使用したことがあるのだ…! 20歳になった夜、サークルの打ち上げで泥酔した私は幹部連中に連れられて第三美術室に訪れた。 彼らからその犯罪のシステムを聞いた時、私は好奇心に満ちていた。若かったのだろう。その秘密のやりとりが私の中では幻想的で美しいものの様に思えたのだ。 吸ってしまえば、この世は天国に代わった。 インスタントヘヴン。光と闇は同化し、空に咲いた花が雫を堕として命が生まれ、回転する星と同じ視点にたって、氷室の中に希望を見出す。 彼らの女になって騒ぎまくった夏は多分、人生で一番ギラギラしていた。 昼も夜も、祭り囃子が鳴り止まない日々に私は生を実感していた。 「日高ちゃん!」 ハッとする。放心状態だったみたいだ。目の前には氷室先輩がいる。どこか優しげで、あの夜のときみたいだ。 「大丈夫?めっちゃ汗かいてるみたいだけど」 「いえ、大丈夫です… あ、すみません、ちょっと帰らなくちゃいけないなくて…夫がもうすぐ帰ってくるので」 「え!日高ちゃん結婚してたの!俺たちの仲でしょ!?結婚式呼んでほしかったなぁーっ」 「ははは…すみません!また同窓会やりましょう!」 スマホを取り出そうとする。今日はよく落とす日だ。 慌てたせいか、手から飛んだスマホが氷室先輩の前に落ちて、彼は「よく落とすな」と言いながらそれを拾う。 「待って」 彼の眼に映るロック画面には、私日高美琴と夫の雛山透とが手を繋いだウェディングフォトが浮かび上がった。 「…」 時が止まった。いや、すぐに動き出したか。 彼の眼に殺意が宿ってるのはすぐ見て取れた。 自分を裏切った女への復讐。裏切った男へ嫁いだ復讐。 なんにせよ、殺そうとする意志がナイフに光を宿していた。 「死ねよ…この裏切りモンがぁぁぁぁ!!!!」 私は恐怖に慄いて、悲鳴をあげながら大通りに躍り出た。 彼は鬼の様な顔をしながら私に向かってくる!私はハイヒールを投げつけた後、全力で自宅へ走ろうと地面を蹴った。 しかし、彼はそれを上回るスピードで追いかけて、私の右足首を掴んで倒れた。 「きゃあああっ!!!!!」 私もつまづいて倒れた。多分鼻血が出ている。 そして氷室が鬼の形相で私に馬乗りになった。私はかろうじて向き合うことができ、彼のナイフを振り下ろす手を紙一重でキャッチする。 ってか、この騒ぎなのにどうして誰も助けてくれないの!?普通男女がナイフでどーのこーのって警察を呼んだりするヤツでしょ!? ダメだ、もうこれ夢なんじゃない?まだ、朝じゃないんだ…きっと明日が広告の納品で、それが嫌で悪夢を見てるんだ… 「グフッ!…あつっ」 突如、お腹に熱を感じる。熱い。コーヒーを注がれた様な熱に理解が追いつかず、目をやると、そこにはナイフが突き刺ささっていた。 「ひっはっはっはっはっはっは!!!!!」 氷室は奇声とも笑い声とも呼べない音を発しながら複数の男性に取り押さえられている。 …熱い…でも…よかった…誰か警察を呼んだのね… 自分の状況を理解できず、視界が真っ黒になり、サイレンの音と共に私の意識はそこで途絶えた。 ・ 「なるほど」 「それがこの男の…」 浜田刑事は取調室の机をじっと見つめながら言う。 「そうです。 あの男は氷室浩太。31歳。職業はわかりません。 しかし、一度メディアでも取り上げられたヴィーナス・ドライバー事件の犯人なので、顔を知る人は多いはずです。 私も事件に関わった身でおこがましいですが、これほど精神が錯乱している人物だとは思いませんでした。 存在しない記憶で、よく2時間もあったかのように話すものです。 演劇部の話とか、結婚の話があった時は吐き気さえ覚えましたよ!」 「そうですね…うん…確かに信じ難いことではあります… 私達警察も未だ信じられずにいます。 こんな珍事が起こるなどとは…」 「これで、取り調べはよろしいでしょうか。 ヴィーナス・ドライバーの件は、私は罪を受け入れるつもりでいます。もし処罰をするのであれば…」 「…うーん…それは難しいでしょうなぁ。 …その…かなりのレアケースですので。」 「そうですか。わかりました。 また進展があれば連絡をください。」 「かしこまりました。今日は刑事を一人、監視でつけます。」 「監視…?」 「あぁ、いえ、警護のような物だと考えてください。 ヒムロに仲間がいないとも限りませんからねぇ 暫くは在宅で働くことをお勧めします。」 「あぁ…そういう… はい、わかりました。」 女性は部屋から出ていった。 ・ 取調室に隣接するマジックミラールームの戸を開けると、一連の調書手続きを見ていた男性が腕を組みながら、苦虫を潰したような顔をしていた。 今時の塩顔イケメンといったふうな爽やかな顔だちだ。 「長時間お疲れ様でした」 「あぁいえ、刑事さんこそ、長丁場お疲れ様です」 「ハハ…いやね、こう言うの初めてなもんで、 どうすればいいかわからなくてねぇ…」 他称:氷室コウタは考え込む素振りを見せた後言った。 「刑事さんはこの状況を普通だとお思いですか」 「いやはや、うーん…普通では、ありませんな」 「そう思いますか。…仮に一言でまとめるとすれば」 「この女はさっきからずっと何を言っているんだ?…ですね」 「はぁ…はは…まぁ…そうなりますよね」 刑事は続ける。 「この女性は、自称:ヒダカミコト。年齢29歳 職業はアートディレクター。既婚者で子供が一人いるとおっしゃっていました…。 しかし、この女性が戸籍上見つからないのです。 彼女が言う住所も家族も存在しない文字の羅列でしかなかった。 いや、そもそも彼女の言う固有名詞にはしばしば存在しないものが登場した! ナニワトウザイセン、トヨトミエキ、アカシダイガク、コード、ホボヨイ、ヒビキヨウチエン、ダイソロ… そして、極め付けは存在しない薬物売買事件、ヴィーナス・ドライバーときた! もう、何もかも出鱈目で途中から…吐き気さえしましたよ。」 「僕も同意見です。 僕は道で泥酔状態の女性を交番まで送り届けようとしただけなのに… 急にフルーツナイフで襲いかかってきて… て、抵抗したらたまたま彼女の腹にナイフが…」 「心中お察しします」 「全くです!彼女には悪いが、僕は被害者ですよ! 今日は恋人との大事な記念日だったというのに!」 「あぁ…本当にお気の毒です。 我々警察は、事件の真相を究明し、真実をあなたにお伝えすることを約束します。もちろん、この件を正当防衛とし罪になるようには致しません。」 「本当に…よろしくお願いしますよ…」 男性はげっそりとした顔でマジックミラールームを出て行こうとする。 「あ、すみません…ちょっと待ってください。 少し調書が手元になくて…もう一度名前を伺ってもよろしいですか?」 「あぁ…僕は、 日高尊(ヒダカミコト)…というものです。」 ・ ・ ・ くそっ… この事態をどう見ればいいんだ… 大阪府警捜査第一課強行犯係の浜田巡査部長は、デスクで煙草をペン回しなどをしていじりながら、考えふけっていた。 とある場所で起きた傷害事件。男が女を馬乗りになってナイフで腹部を刺した。だが、すぐに通行人に取り押さえられ、女性の方は幸い軽症ですんだ傷害事件だった。 しかし、問題はここからなのだ。 加害者と被害者の両者に、取調室で調書を取ったのだが、 この二人… 完璧に“頭がおかしい”のだ。 二人とも言ってることがおかしい。 この世に存在しない言葉ばかり言って要領がつかめない。 女はかろうじて住所があるみたいで、紐づいた戸籍を部下に調べさせているところだが、男の方は住所もわからず、本名さえわからないのが現状だ。 供述に共通するのは、 喫茶店の前でもみ合いにあり、男が女を刺したということ。 そして、両者共にヒダカミコトを名乗っているということ。その二点だけしか噛み合わないのだ。 最近の若いモンはみんなヤクやってんのか? もしくは、こいつらは…現実の外からきた何かなのか… それとも…俺… もう思考がままならない。 こんな妄想を俺がしちまうだなんて… 多分、先週、何となく買って読んだ本のせいだ。 「部屋の外の悪魔」… マウスを全面鏡張りの部屋に閉じ込めてその様子を観察する、薄気味悪い科学者の話だ。 マウスはメタ的な視線を持たない。見えた世界が本当に全てなのか、正しいのかを考えることができない。マウスは自分だけが映る世界に耐えきれず、死んでしまう。 それを箱の外から科学者が観察し、笑い転げるというなんとも後味の悪い小説だった。 カンッ。 隣に缶コーヒーが置かれた。 はっと気づけば、時刻は深夜1時で、横の同僚を除いて全員帰っていた。 隣のデスクの入江は、同期でも一番仲のいい男だ。 言葉は荒々しいが、思慮深くてどんな他人にも善意をもって行動できるヤツで、尊敬のできる同僚。 缶コーヒーを渡してくれながら、入江は言った。 「なんかずっと悩んでるみたいやけどなぁ、浜田」 「うん?」 「こーゆーときはいつもの儀式や」 「あぁ…そうだな。 久々にあれをやってみるか」 儀式とは、「取り調べごっこ」である。 複雑な事件を取り扱う時、自分の思考を整理するためには紙に書き出すだけでは、頭の中が整理できない。 なので、守秘義務の守れる身内に、「供述」するように話をすることで、情報をまとめながら自分の思考をメタ的に観察しようという試みだ。 じっさいこの取り調べごっこは幾度となく行われ、一定の成果のある有益なルーティンだ。 「おっしゃ、じゃあ第三でやろや」 「おう。入江、ブラックでええよな。 下で買ってくるわ。ノートとペンも持っていく。」 「おう!ありがとな」 階段を降りる足音とドアが開く音が廊下を駆ける。 やけに響く。そうだ。今日は雨だった。 ・ 「おし、はじめよか!浜田」 「あぁ」 「じゃあ、好きに喋れや」 「ありがとう。じゃあ… まず、この事件の登場人物は二人だ。 男の方は自称:ヒダカミコト。女の方も自称:ヒダカミコト。なぜか二人とも同じ名前を名乗っている。 わかりにくいから、男の方ををヒダカ、女の方をミコトと言うことにする。 彼らが接触したのは、19:07に喫茶ムヤ前の大通り。ヒダカは午後18:45にH駅を出るところが防犯カメラに映っている。ミコトがH駅を出たのは18:53。 つまり、一本違いで駅を出た二人が、駅前の喫茶店前でもみ合いになって傷害を起こしたわけだ。」 「ほう。何で一本違いなのに二人は出会ったんや?」 「それは、このヒダカとミコトの8分のタイムラグが近くの100円ショップでヒダカがフルーツナイフを買ったことに起因するからだ。 そのレシートもあるし、店側の記録もある。」 「じゃあヒダカはそのナイフでミコトを刺したって言うんか」 「いや、それが、ナイフ自体はまったく使われていないんだ。」 「ん?というと?」 「ヒダカが購入したナイフは、パッケージから開けられているし、指紋も付着しているが、血痕がついていないんだ。 そもそも、犯行に使用されたナイフはどうやらミコトが持っていたナイフのようなんだ。腹に刺さったナイフはミコトの指紋しか出てきていない。」 「うん?要領が掴めへんなぁ… つまり、ナイフは二つあったっちゅーことか?」 「そうだ。 偶然にも全く同じナイフをミコトは持っていた。そして、犯行にはミコトのナイフが使われている。」 「つまり、ミコトが自分で自分の腹に刺したってことか?」 「わからない。男性の絶叫も女性の悲鳴も通行人が聞いていることから、何やら揉め事があったみたいだが、単にヒダカがミコトを襲おうとしたわけではないみたいなんだ」 「そうか…それで、通行人が通報して、T交番のやつらが取り押さえたってところか。」 「あぁ。それで、二人から事情を聴取すれば、この事件は解決するはずだった。 ただ、今回俺が頭を悩ませているのはまさにその二人なんだ。」 「あぁ、それは庁内でも噂になってる。 目撃者以外の全員がイカれてるって話やろ」 「はっきり言ってそうだ。 二人から話の全容を聞くと、ヒダカの方は高校の共犯関係にあった知り合いだと言うし、ミコトの方は大学の共犯関係にあった知り合いだと言うんだ。 そして、話をしていくうちに、存在しない固有名詞がいくつも存在するんだよ。」 「眩暈がするような話やな」 「全くだ! …曽根山高校生徒行方不明事件…ヴィーナス・ドライバー事件…どのプロファイリングを調べても出てこないし、隠匿された形跡もない。事件に関与している人物として、それぞれお互いを認識しているが、相手側は互いに頭がおかしくなっていると思っている。 記憶が吹き飛んだとおもっているようだ。」 「…待てよ…曽根山高校生徒行方不明事件…? ヴィーナス・ドライバー…聞き覚えがある…気がすんなぁ…」 「本当か!?」 「うん…まぁごめん、話折って悪かった 続けてくれや」 「あ、あぁ… そして、二人の取り調べは長時間にわたって行われたが、ある実験を俺は行ってみたんだ… 何、彼らの精神性をチェックするための試みだ。 取調室横のマジックミラールームがあるだろう? あそこに互いを観察させて客観的な意見を聞いたんだ。 すると、驚くべき結果となった。」 「どうなったんや」 「なんと、平然と、自分の供述と違う結末を言い始めたんだよ。彼らは。 つまり、情報の照合性が全くないんだ。どちらが正しいのか以前に、嘘をつくつかない以前に、まるで世界線が違ったように意見がコロコロと変わる。そして彼らの眼を見るにそれを本当の過去として認識している。」 「…ありえへんな」 「俺も信じたくない。こんな出鱈目なこと。 おそらく精神鑑定を二人とも受けなくてはならないだろう。事実を言って… 俺にはもうそれしか思いつかない。もし、部下の監視の結果、ホームレスだったら?スパイだったら?他の人間が自分をヒダカミコトだと思い込んでいたら? もうたくさんだ! 事実が事実である世界で俺は仕事がしたい。こんな虚にまみれた事件に首を突っ込んでいると頭がおかしくなるよ」 「ふーむ…浜田… 俺ァこの事件の犯人…わかったぜ… どっちが…誰が主犯なのか…」 「えっ!? 本当か!入江!」 「あぁ…」 ・ ・ ・ 取調室で入江と浜田の問答が続く。 「本当か!?入江!!」 「あぁ…」 「犯人はな… お前や…浜田」 「え?」 「強いて言うならこの事件はお前の中にしか存在しない。 浜田…あえて言うぜ。 お前は最初から最後までずっと何を言ってるんだ?」 「は?」 「お前が担当していた傷害事件は存在する。 ただ、その調書にお前が書いた全ての情報が出鱈目なものなんだ。 ヒダカのことも、ミコトのことも、全てお前が勝手に作り上げた嘘だ。」 「事件の全容はこうだ。 H駅で18:45に降りたお前は近くの100円ショップに行きフルーツナイフを買った。その姿は防犯カメラに記録されている。 そして19:07男女がもみ合いになっているのを見つけて、二人の間に入り静止しようとした。 その中で、運悪く自分の鞄にあったフルーツナイフを男に取り上げられ、男はナイフで女性を刺した後、自分の胸を突いて自殺した。女性も救急搬送されたが、程なくして死んでしまったんだ。」 入江は続ける。 「お前は事実を知って錯乱した。 そして、この男女にまつわる二つのストーリーをでっちあげた。いや、お前の言う実験を含めると四つのストーリーになるな。 彼らが自分のせいで死んだと言う事実に心がついていけず、生きていてほしいという一心で別々のストーリーを作り上げて、解決しない謎を作って、この事件から身を引こうとしたんだ。 同僚の皆ははっきり言って戦慄してたよ。普段から信頼の厚いお前が傷害事件に巻き込まれて、職場復帰したら空っぽの取調室でずっと独りで喋りながら偽の調書を書いているんだからな。 統合失調症っていうのか?俺は古い人間だからよくわからんが、精神防衛の一種らしいな。」 「が…が…」 「とりあえず落ち着け。 そして、今ここに精神科の先生に来てもらってる。俺の部下も廊下に待機してくれている。お前を精神病院まで安全に連れて行ってくれるらしい。 事件はあの夜に既に解決していたんだ。お前はよく頑張った。ゆっくり休んでくれや…」 「あぁ…あぁ…」 そして、“狂人”浜田健悟は保護されて、検査入院することとなった。こうして、一連の傷害事件は幕を閉じた… 深夜3時。 入江は、この2日間の浜田の奇行を振り返りながら頭の中の整理をしていた。 「奴は真面目だった。 何でナイフを買ったんかは知らんが…別にお前のせいってわけじゃなかったんだぜ…」 「しかし、何かひっかかる…曽根山高校生徒行方不明事件…ヴィーナス・ドライバー事件… もちろんプロファイリングにはなかったが…どこか記憶の隅にぼんやりと覚えがある。全くの嘘とは思えない」 「そもそも、奴の書いた調書はあまりにも正確だった。本来の統合失調症の妄想・妄言とは支離滅裂なモノをいうのではないのか… 本当に頭がおかしくなっただけなのか…それとも…俺たちが認識する世界とは…」 ハッと時計に目を向ければ3時半だ。 まだこの時間に家に帰れば少しは眠れるだろう。タクシーが走ってるかだな。 ベルトを締め直そうとして気づく。 「あ、関西弁忘れてた。」 「まぁ…ええか。とりあえず考え過ぎんことがいっちゃんええな。浜田みたいになったら敵わんもんなぁ…」 入江は少し寂しそうな顔をして、取調室の電気を消した。 ・ ・ ・ 悪魔達は笑う。 マジックミラールームは彼らだけしか入れない。 彼らが浜田に観せたのは男女の四つの可能性。 ストーカー、 高校の同級生、 大学の先輩と後輩、 そして、赤の他人… それは、確かに存在するいくつもの世界線。 だが、ここにはない悲劇… 「あいつがよめさんに」 「たのまれてなけりゃな」 「ふるーつないふ」 「かってきてってさ」 室にいる限り、 ヒトは彼らを見ることはできないだろう… 雨が降っている。 完
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