act.4

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   おパンツを始め衣類一式、靴、鞄、その他諸々。黙々と買い物を済ませトランクいっぱいに荷物を詰め込み、次は市民病院へ向かった。  父はまだベッドから動けないとは言え、顔色がいくらかマシになったように見える。でも目は落ち窪んで⋯⋯いつも明朗快活な人の弱った姿には参る。  それでも見舞いは笑顔で! 病人に気を遣わせてはいけないのだ。 「悪かったなあ」 「いいのいいの。有休貯め込み過ぎって文句言われてたから」 「ウチは町の歯医者さんだけど保険診療ちゃんと出来そう? おじいちゃんおばあちゃんいっぱい来るけど義歯調整出来る?」 「でーきーまーすー」  保険診療と自由診療には明確な違いがある。保険診療では『痛みを取り除く』『食物を噛めるようにする』『予防』が前提の行為が対象となる。  対して自由診療、審美的治療で重要なのは(『噛めるように』は当然として)あくまでも見た目だ。美しい歯並びを実現する為に健康な歯を引っこ抜く事だってある。リスクと天秤に掛けてなお美しさへ比重が傾く訳で⋯⋯保険診療とは価値観そのものが違って来る。  でも俺の根っこは『虫歯が治せるお医者さん』だって忘れた事はない。つもりだ。 「ウチの患者さんに重症の “先欠” の子がいてね。十六才のお嬢さん」 「重症」 「乳歯ないの。永久歯は影も形も、胚すら見えなかった」  先欠、先天性欠如歯。 『生まれつき歯の数が足りない』人は意外と多く一本二本なら珍しくもない。俺も六本足りていない患者のインプラント設計を担当した事がある。でも乳歯だけとなると維持、予防⋯⋯メンテナンスは人一倍大変だ。 「父さんも初めてのケースだし大学病院を紹介したんだけど。ウチでないと嫌だって一回行ったきり。続かなかった」 「親御さんは何て?」 「⋯⋯ もっと小さい時から通わせてくれてたら対処のしようもあったけどね⋯⋯虫歯だらけで、痛みが出てようやく駆け込んだ歯医者がウチだったらしい」 「⋯⋯⋯⋯」 「あの若さでも総義歯(コンプリート)は避けられんかも知れんと思ってはいるけど⋯⋯出来るだけ長く残してやりたい。自前の歯で噛んで食べるご飯は美味しいから」 「⋯⋯うん」 「本人は素直な明るい子でね。笑顔が可愛らしい子なんだ。ちゃんと診てやってね」 「うん」  自分が弱っている時でも患者の事を思える父は本当に立派だと思う。  俺に代わりが務まるのか、不安がないと言えば嘘になるけど⋯⋯その子にもどの患者にもベストを尽くそう。 「あとね、車ぶつけないでね」 「⋯⋯⋯⋯ウン」
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