雨をすぎれば

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 驚いた。とはいえ青木は昔から、瑞樹が尋ねたり振らないかぎり、つき合っている女性の話はしない。過去を武勇伝のように語ることもないし、だからほぼ知らないのだが、こういう流れでとつぜん現れることがまれにあってどきりとさせられる。においだけで漂わせた、あの日のように。  ふと金木犀のにおいが香る。隣のセット面から流れてくるヘアオイルのにおいだった。いやなにおい。今もまだ大嫌い。このオイルにだけは、ずっと手を出さないでいる。  瑞樹はうつむき、明度100パーの顔をこしらえ、青木に向き直した。 「おまえさー、彼女にいい加減なことでもしたんじゃねえの?」  はははー、とからかってみる。 「心外っすわ、思い当たる節ゼロだし」 「聞いてみろよ、なにがだめでしたかって」 「こえー。猛然ダメ出しの予感しかしねえんですけど」 「ざまあー。思い当たる節ありありじゃん」 「女心は永遠の謎。まあ、俺が悪かったんだろね、部活部活であんま遊ばんかったし」  青木の瞳の色が薄暗く色褪せていく。そもそも恋人に関心があったのだろうか。彼のなめらかにいなす口ぶりは、なんにもならない優しさだと彼女たちには捉えられそうだ。「恋人」というポジションでレギュラー入りしていればよけいに、誠意のパスには敏感な気がする。  とはいえ、青木の恋人が彼の無関心を理由に別れを決めたかどうかなど、自分には永久にわかりっこないのだけれど。 「先輩火曜休みだろ、遊びに行くのまじで考えといて」 「うん」 「ちょっと遠出してみようや、俺車出すし」 「……そうだね」  青木のこれは、純粋な好意だと思う。この誘いが彼にとって、無邪気なものであるのもつき合いの長さからよくわかる。そして自分の好意と重ならないことも。  カットはじきに終わる。シャンプーをしてセットして、きょうはもうおしまい。  青木のシャンプーカットを終えたころ、ちょうど閉店時刻になった。この日最後の客となった青木を、瑞樹は外まで見送る。青木と数十センチの距離を開けていると、すぐ傍を男女が通りすぎた。寒さのせいか二の腕が触れ合うほど近く、ぴたぴたに寄り添っている。恋人同士かもしれない自然なふたりを、目が追っていた。  いいなあ。 「ん? なに」  ごまかすように瑞樹はぶんぶん首を振る。 「どしたん? 大丈夫?」  今度は覗きこまれ、どん! と胸が騒いだ。体が一気に熱っぽくなる。なのに、冷たい空気にさらされた指先は冷たい。また熱が出たら、青木はまたいたわってくれるだろうか。  青木からはあのあと、金木犀のにおいはしなくなった。金木犀の彼女だけじゃない、ほかの女性とだってつき合っただろう。子どもじゃないんだ、血気盛んな高校生じゃない。わざわざ尋ねる必要なんてない。  いやちがう。  おれに見こみがない決定的な証拠を、おれ自身が二度と見たくない。傷つきたくない。 「先輩?」 「あーいや、なんでも」  自分の好意がバレるのもいやだ。嫌われたくない。どこにでもいるひとたちの中に、紛れていたい。 「じゃあまたな。ご来店ありがとうございました」 「いやいやこちらこそ。またかっこよくなっちゃった、これ以上モテたらどーすんの」 「今フリーなんだろ? ちょうどいいじゃん、モテたら宣伝よろしく」  まったく思ってもいないことを言うのも、もう慣れた。 「つれねえー、俺を見捨てないでよ先輩」  青木はときに、無自覚に無神経だ。瑞樹に気がないからこそ、距離も詰めれるし抱きしめられるし、見捨てないでなんて残酷な言葉を、無頓着に言える。 「ばーかばかばかばか。早く帰れ営業妨害」 「もう終わったじゃん、飲み行く?」 「行かねー。疲れたから帰る」 「へーへーお疲れさん、きょうはありがとう」  じゃあね。
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