雨をすぎれば

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 青木は瑞樹に背を向け、ジャケットのポケットに手を突っこんで、ちょっとだるそうに歩き出した。背が高いから足もそれなりに長くて、ぶらぶら投げ出すみたいにして青木は歩く。ひゅうっと吹いた風に瑞樹は目を閉じ、開けたときにはもう、彼は雑踏の中に消えていた。背中も見えなくなっていた。  瑞樹はときどき思い出す。高熱でうなされた日のことを。あのとき、ほんとうに青木は朝までいた。目覚めたとき彼は、瑞樹の手を握りながらベッドの傍らに頭を預けて眠っていた。動揺と高揚が入り混じり、握られた手をまじまじ見つめ、夢じゃないかと反対の手で自分の頬をつねった。夢じゃなかった。離したくなかったけれど不自由で、惜しみながら彼の手のひらを外した。青木は目を覚まし、その手は瑞樹の額を撫で、ふにゃりと笑んだ。  ――熱下がったね、よかった。  そう言って、瑞樹のべたべたの額に自分の額をくっつけて、抱えるように頭を撫でて抱きしめた。期待した。好きだと言いたかった。今なら許されるんじゃないかとたかぶった。応えてくれると思った。  でも、青木の体からは金木犀の甘いにおいが消えていなくて、現実に引き戻された。  青木はおれを、好きになんてならない。  店を閉め、「お疲れさまでした」とスタッフ同士で挨拶し合って裏口から外に出る。帆布のトートバッグをかけ直したとき、剥き出しになっているうなじに冷たい空気が入りこんだ。屋内と外の温度差に身震いして肩をすくめると、パーカーのフードの高さにぎりぎり救われる。気温が急激に下がってしまったので、暦上だけでしかもう秋を味わえないのもしれない。季節にまで置いてきぼりを食らった気分だった。  ポケットの中のスマホが鳴る。一旦立ち止まり、確認した。なんとなく青木のような気がした。 『きょうはありがとう。今度いつ飲み行く?』  やはりそうだった。 「こちらこそありがとう。いつでもいいよ」  つい口ずさみながら返信してしまった。ぽとりとつぶやいた声は、すぐ闇夜に紛れる。歩道は街灯で明るいけれど、ひと気もあるのにほのかに静かだ。どうして夜の独り言って、その場にたたずむことなく暗闇に溶けるんだろう。日中のおしゃべりみたいに、ずっと居残ることはない気がする。 『俺ってあんたの邪魔してる?』 「なんだそりゃ」 『いやー、しょっちゅう誘ってっからさ。つき合ってもらってんのかと』 「えらい殊勝だな、どーした青木先生」 『俺はいつでも殊勝ですが』 「安心しろ、殊勝とはほど遠い無神経だから。つーか『もらって』はいない。ばかにすんな。今度言ったら向こう半年奢らせる」 『そーなん? じゃあいいや。でもなー』  無神経と奢りのとこ無視すんな、そこ重要だろ。 「なんだよ」 『先輩いいやつだからな。彼女できたらちゃんと言えよ? 誘うの控えるし』  いいやつ? おれが? はっ、ばかかよくそが。スマホの向こう側の青木に向かって、瑞樹は思い切り悪態をつく。通行人の邪魔にならないよう、歩道脇で立ち止まっていたが、靴底でコンクリートを蹴っ飛ばすほどにはムカついた。ちくしょ、これお気に入りのニューバランスだったのに。 「彼女なんていねえよ、残念ながら」 『ラッキー、じゃあまたよろしく』 「喜ぶな不謹慎なやつめ」  今から帰る。じゃあな。最後はそれで締め、スマホをデニムのポケットに戻した。アパートまでの道のりを行きながら感じる風はやはり冷たく、フードの襟に顎をうずめ、ポケットに手を突っこんだ。木枯らし一号はまだだとニュースで見たばかりなのに、こんなにも寒いだなんてどうかしている。  においだけはもう初冬が滲み出ていて、目が痛い。  ――先輩いいやつだからな。  いいやつなんかじゃない。いいやつの基準がおれであるならおまえはひとを見る目がなさすぎる。
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