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やっぱきょうでおしまい。もう連絡は取りません。マッチングアプリお疲れ、そしてさよなら北村さん。おそらく彼も、偽名なんだろうけれど。
「そろそろ出ましょうか」
「あー、そっすね」
てきとうに返事をし、ニットキャップを被り、伊達メガネをかけてマスクをする。呼吸をすると、ときどきメガネが曇ってうっとうしかった。早く外したい。
北村は瑞樹に断りも入れず、とつぜん会計機に万札を突っこんだ。ぎょっとした瑞樹は、素早く札を差し出す。
「いいっすよ」
彼は爽やかに拒否した。正直困った。ここに来る前の食事でも、北村は全額支払ってしまったのだ。割り勘で、と言っても、彼は応じなかった。
アプリ内でも実際会った印象も悪くないし、むしろ北村は好印象の部類だった。真実かどうかはさておき、どこぞの営業マンらしい会話のスピードもセンスも悪くない。でも正直、善意の押しつけだ。恩着せがましいし、受け取る側が窮屈になるのがわからないのだろうか。万が一それを口実に、しつこく連絡されても困る。もっとちゃんと、割り切れよ。
北村は、目を閉じて青木を想像する仮そめの相手にはじゅうぶんだった。わんわん鳴いたら彼も喜んだし、前からも後ろからもずがずが突いてきてお互いすっきりしたはずだ。瑞樹はきょうも目を閉じて心の中で、青木、青木、と呼べたし、妄想上の青木も、瑞樹を好きだと返した。
おれはこのひとを、自慰行為の道具に使っただけなのに。
「きょうのメシどうでした? オレはうまかったっす」
北村は前を向き、さっさと足を進めながら瑞樹に言う。
「あー、そっすね」
瑞樹はついさっきと同じ口ぶりで返した。連れて行かれたのは、モダンな雰囲気で味も悪くない和食の店だった。「営業だから店はけっこう知ってるんです」と答えながら覗かせる八重歯が印象的だった。
終わったあとまで会話はいらなかった。もはやお疲れさまでした、の感覚だ。数時間限りの関係なんだから、心地よく性欲も満たされて気分爽快、であっさり終わってくれ。どうせむなしいんだ。急激な疲労が、歩くたび背中に乗っかってきて重い。
外は真っ暗なのにホテル街はパフェみたいに濃彩なネオンが散らばっていて、目に優しくない。闇と光の混在に、時間の感覚がおかしくなりそうだった。底辺よりもっと深い、這い上がれない沼に引きずりこまれていきそう。
通り過ぎるひとは瑞樹たちに目もくれなかった。男女、ときどき男性同士、女性同士、事情を知りもしない、性のにおいだけがする。
「坂本さん? 大丈夫ですか?」
坂本ってだれだ? あ、おれか。見上げると北村は、沈黙した瑞樹をほんとうに気遣っているように見えた。目を伏せ、彼に会釈し、数歩距離を取った。
「ご心配なく。大丈夫です。じゃあ失礼します。お疲れさまでした」
ホテルの前で話しこむのはいやで、歩きはじめる。とにかく早くひとりになりたくて、北村とも離れたかった。なのに彼は、瑞樹についてくる。
「ちょっと、ちょっと待った!」
「待ちません。帰ります」
「坂本さん、またオレと会ってくれませんか?」
「は?」
振り向き、立ち止まる。あ、と思った。自然と口が開き、マスクが唇に張りついて気持ち悪い。これ以上ないくらい瞼を開けて一方的に凝視した。眼球が渇いて、何度もまばたきする。
なんで。
瑞樹の目に映るのはこちらに向かって歩いて来る、北村ではない別のひと。
なんで、ここに。
しかもひとりで。
目が合い、彼のほうも驚いたように瑞樹を二度見して、ざっと靴音を鳴らして立ち止まった。
「え、先輩……?」
「青木……」
呼び返した瞬間、マスクの上から手のひらで口をおおった。どうしよう、バレた、やばい。
青木の目は瑞樹を確認した直後、傍らの北村を見て、おもむろに表情を強張らせた。眉をひそめ、彼をねめつける。
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