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次第に胃が痛くなってくる。食欲がなくなり、つくってきたおにぎりをテーブルに置いた。きょうは梅干しとしゃけで、しゃけは昨夜焼いてうまかったからその残りを使った。我ながらいい焼き具合だったのに、悲しくなる。
ことん、とマグカップが置かれた。瑞樹のカップだった。見上げると、木下が微笑んでいる。
「おにぎり、いらないならオレ食いましょうか?」
「おまえ、狙ってんな?」
「だって、永野さんのおにぎりうまいんだもん」
手をつけていないおにぎりを木下に渡した。わーい、と彼は素直に喜び、旺盛に頬張る。うまいだろ、いい焼き具合なんだよ。
青木にも、何度かつくったことがあった。うちで家飲みして、そのまま寝落ちして、だらだら起きて来た青木にインスタント味噌汁と一緒に。彼は喜んだ。「先輩うまいよまじで」と口いっぱいに頬張ってくれたのが嬉しかった。
青木も今ごろ、昼休みだろうか。思えばくだらない話ばかりで、彼がいつ昼食を食べているかもなにを食べているかも、聞いたことがなかった。特に「欲求」に関することは、長いつき合いなのに知らないことだらけだ。
結局、青木の誘いには「いいよ」と返信していた。もう知らん、なるようになれ。その直後「この店でいい?」と、ふだん行くような居酒屋のアドレスが添付されてきた。それにも瑞樹は了承し、スマホを閉じた。
仕事を終え、この日は後輩指導のレッスンを休んで約束の場所に直行した。青木からすこし遅くなると事前に連絡があったので、入店とほぼ同時にあとからひとり来ることを伝えた。テーブル席に案内され、先にビールと枝豆を注文する。先にちびちび飲みはじめた。
この店はどこもかしこも、流れては消える会話が行き交っていた。紛れてる、と瑞樹は思う。ひと、ひと、ひと、さまざまな話し声が瑞樹を一般の装いにつつんでくれる。後ろの席の話し声もなかなかの声量で、自然と耳に入ってきた。おそらく大学生と思われるふたり組が、恋愛話に花を咲かせている。好きなひとが振り向いてくれない、もう次行ったら? いやいやまだいけるっしょ、等々。傍から聞いているともう、がんばれーとしか言いようがない。
「ねえ、おにいさん」
肩を叩かれ、おれのことか、と気づいた。
「ひとりで寂しくないっすか? 混じりません?」
ああー、酔っ払いだ。と苦笑交じりに答える。
「そうしたいのはやまやまなんですけどね、もうすぐ連れが来るんで」
「えー? 彼女?」
しつこいなあ、と疎みつつ、友人です、と返した。向かいに座る男性が、「おい絡むなよ」と彼をたしなめ、ぺこぺこ頭を下げる。
「じゃあさ、友達来るまで一緒に飲まない? ねえ?」
ああーめんどくせえー。いい加減腹が立ってきて、でも酔っ払い相手に本気で対応するのもあほらしい。やんわり断ろうとしたとき、瑞樹の顔に影がかかる。反射的に見上げた。
「あ、青木。お疲れ」
青木が、ふたり組を見下ろした。
「俺の連れになんか用ですか? 代わりに聞きますけど」
酔っ払いは面食らったのか慌てて正面に向き直し、同席の男性はきまりが悪そうに会釈する。高校時代もこんなことがあったな、とゴリラを思い出して懐かしくなる。けれど、座り直したときに引きずった椅子の音がかん高くて、息を呑んで現実に立ち戻る。青木が前の席に腰を下ろしてしまえば、とたんに気重になった。
青木は眉をひそめ、低い声音で店員にビールを注文する。あきらかに不機嫌なのが見て取れて、ますます憂鬱になる。
「気ぃつけろよ。あんたまじで隙だらけ」
「気ぃつけるったって、勝手に話しかけられんだからしょうがねえじゃん。つかさ、隙だらけってどういう意味?」
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