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ばかにしてんの? と楯突いた。先日の件が常に脳裏に居座っているからか、すべてのやり取りが気にかかる。後ろ暗さから先立ってまくし立て、青木の言葉を途絶えさせたくなる。どうしよう、今からなにを持ち出されるんだろう。ひょっとして、学生時代も青木から一方的に見くびられていて、だから「送る」などと彼は切り出したのだろうか。
楽しいだけの色鮮やかだった唯一の思い出まで黒く上塗りされていきそうな気配に、心底嫌気が差した。青木が頭をがしがし掻くふだんのしぐさまで、変に勘繰ってしまいそうだ。とうとつに、枝豆のひやりとした味わいがよみがえって奥歯が疼く。
これからなにを言い渡されるのだろう。もう会いたくない、気持ち悪い、の類いだったらどうしよう。
「ごめん、先輩とケンカしたいんじゃない」
お待たせしましたぁー、とビールが運ばれてきた。白い気泡がなめらかに揺れる。
「これから俺が遅れるとき、カフェかどっかで待ち合わせる? miuの近くにスタバあったし」
「え?」
青木は、刺身の盛り合わせと揚げ出し豆腐、あさりの酒蒸しとなぜかおにぎりを注文した。「今頼むの?」と問うと「今食いたい」ときた。しかも「おにぎり先でもいいですか?」とつけ加えた。注文を終え、青木はビールに口をつける。
「これからって?」
だから、どうして、ひとり勝手に落ちくぼんでいるときに、未来の約束を簡単に、おまえは。
「いやだから、先輩が絡まれてんの見たくねえじゃん」
後ろの席が動いたのがわかった。どうやら帰るらしく、背後の気配が途切れる。変な寒々しさだけ空欄みたいに残った。
「べつにおれ、いいよ。こんなん、どうってことねえし、男だし、べつに」
「男だとか女だとか関係なくねえ? 絡まれたらだれでもいやっしょ。じゃあ、俺が見たくないからそうしてよ」
「……うん、わかった」
嬉しかった。たまらなかった。でも、目を伏せると黒ずんだ床がちらりと表情を覗かせ、また底を見せつけてくる。いろんなひとの足音、何年も履いて薄汚れた黒のVANSのスニーカー、行き交うひとの流れ、ありふれた「だれでも」の中に、自分が紛れこむ余地なんてあるのだろうか。
ひと、ひと、ひと、紛れていたはずの世間から今度は見放された気分になり、とてつもなく寂しくなった。瑞樹はこれが寂しいことだと知っている。穴が開いたときの恋しさも青木と連絡を取れなかったときの虚しさも、前例をもって認識していた。だから、青木の存在がないひとりぼっちはいやなんだ。
刺身の盛り合わせと、酒蒸しと、おにぎりが運ばれてくる。青木はさっそくおにぎりを頬張った。
「なあ、なんでおにぎり?」
「ああ、昼間先輩にラインしたから」
「え?」
「先輩のおにぎり食いたくなって。だから」
がつがつ食べてしまうので、もう三分の一くらいの大きさになった。やめろ、と思った。とくべつなことじゃない、家飲みした翌日とか、その程度のことじゃないか。
青木とはこういう、些細な思い出がいっぱいある。カットするのは一か月半に一度くらいでも、おそらく週に一度の頻度で会っている。店で飲むときもあれば互いの家で飲むこともあり、休日はほぼ合わなくても奇跡的に合った日には買いものにも行ったし、青木の車でドライブもした。
その間、青木は瑞樹の前で、恋人の存在を隠し事としてさえ扱わなかった。そんな隙すら見せない。いるはずの恋人は、口から放らなければ青木と瑞樹の間で生きた現実にもならない。秘密にもされないって要は、後ろめたさもないってことなんじゃないか。
青木にとっての自分は、いったいなんなんだろう。気遣われ、要所要所で思い出され、あんな衝撃的なことがあっても捨て置かれない。
おれは青木から、持たなくてもいい罪悪感から、逃げたのに。
「先輩、この間のことだけど」
「うん」
ああ、とうとうきた。
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