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おれはいろんな男に抱かれてきた男です、恋人ならまだしもアプリという道具を使って好きな男の代わりと言い訳を重ねて気持ちよくなっており、バレたら嫌悪されると自覚を持った上で行動しているのでございます。
マッチングアプリのことなんて、言えるはずがない。
とつぜん、青木の真っ直ぐな眼差しが瑞樹を捉え、肝をつぶす。
「あの男が知り合いってだけなら、俺はどうなの」
「な、なにが」
「セックスの相手、俺じゃだめ?」
一気に覚めた。無神経もここまできたら特技だ。
「おまえふざけんなよ、まじでぶっ飛ばされてえのか」
自分でも信じられないくらい低く発していた。この男は、自分たちの関係において許されるぎりぎりの言葉の選択を、無自覚にしている。ひとの気も知らず。
「ごめん、怒んないで」
「怒るだろふつう。ビールぶちまけるぞてめえ」
ビールだけじゃなく枝豆もおにぎりも刺身盛り合わせも揚げ出し豆腐もぜんぶぜんぶ青木にぶちまけて、ありったけの責任をこいつに押しつけて素知らぬふりで帰ってやる。
「俺ら出禁になっちゃうだろ」
「おまえだけな。青木先生辞職案件」
「そしたら先輩に養ってもらうわ」
「働けや、美容師の薄給なめんな」
「ウケる」
「ウケねーし」
喧嘩になんねえじゃんばか。
青木がテーブルの上から瑞樹の服の袖口を引っ張った。ちょいちょいとささやくようについばんでくるので、弱くて強い力にあらがえない。
「ほんとごめん、だれでもいいだろって意味じゃない、ごめん。だけど先輩が知り合いって名目の男と寝てるのはいやだ。だったら俺にしてよ、本気で」
本気ってなに? お遊びで寝るのを本気でするってこと? それともちがう意味で? 聞けないけれど、なんかもういろいろ最低だな、マッチングアプリで相手を探しているおれが思うことじゃないけどさ。
「おまえの理屈、はっきり言ってクズだぞ」
「わかってるよ」
「もう離せってば。ひとが見る」
「やだ。いいって言うまで離さない。嘘でもいい、信じるから」
信じるって結局のところ自分の保険じゃないか。その時点で疑いがあるのを見越した上で、どんな言葉を尽くせば瑞樹がうなずくか、わかって会話しているとしか思えない。立場が弱い相手に対し、自衛しないほうが悪いなんて理論はクズの言うことだ。どう考えてもこっちの分が悪い。惚れているって、最大の弱点だと思う。
ちょっとしゅんとなどされたら、この上なく卑怯じゃないか。計算? それとも素なの? 十年のつき合いでもこれだけはわからない。こんな色っぽい話をしたのなんてはじめてだから。
ずるい、くそやろう、もっともっと好きになるし、マッチングアプリのことなんてなおさら言えなくなる。瑞樹にできるのは、「いいよ」と頷くだけだった。
青木の指が、スウェットの袖口から離れていく。
『着いた』
青木からラインが届いて、玄関前の備えつけの鏡で自分の立ち姿を確認し、癖のない髪の毛にざっくり指を通した。古着屋で買った白のスウェット、カーキのカーゴパンツ、黄色のTシャツをインナーに着て差し色にしている。仕事中とさほど変わらない格好で、これでいいのか確認のためにスウェットをつまんでみたが、首を振る。べつにデートじゃあるまいし、気張る必要もない。
……と、自分に言い聞かせた。
きょうは火曜日だ。店の定休日に、青木はほんとうに有給取って瑞樹を誘った。「生徒に見つかるとやべーからちょっと遠出しよ」と彼は言い、今は瑞樹の自宅アパートの前に停車して待っているはずだった。釈然としないわだかまりを抱えつつ、ショルダーバッグを肩に引っかけて玄関を出た。
ネイビーよりすこしだけ青味が強いボディ。青木の車が路肩に停車しており、助手席の窓をこんこんと軽く叩く。瑞樹に気づいた彼は、左手を上げた。それを合図に瑞樹は助手席に乗る。
「おはよう」
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