雨をすぎれば

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 青木はふだん通りだった。あの件から会うのははじめてだったが、彼から気まずさはうかがえない。 「はよ」  こっちはどう振る舞うのが正解なのかわからなくて、青木の顔がちゃんと見られない。車内の時計だけが目につき、十一時ジャスト、と口の中でつぶやく。青木が連絡なしに遅刻することってないんだよな、と的外れなことを考えた。 「先輩きょうかわいいね」  ぎょっとして我に返る。 「あほか、変わんねえだろ」 「いやいやかわいいよ、黄色」 「なんなんだよ、ふだん言わねえじゃん。ばかにしてる?」  気恥ずかしさを隠すために、わざと強めの口調でふだん通りを装ってシートベルトをつけた。運転席と助手席、会話の感覚、いつもと同じ距離なのに緊張感がひどい。 「いんや、けっこう毎回思ってるよ。今までわざわざ口にしなかっただけ」  そんじゃしゅっぱーつ。青木が平坦な口調で続けるので、よけいに体の芯が硬くなる。 「あとはまあ、俺の前回の失言をね、どう回復しようか試行錯誤中なんで」  その話題を振るな、と思いつつ、言い返せなくて口を閉ざした。車が発進するおだやかなスピードも青木のハンドル操作の安定感も変わらないのに、ものすごくていねいに扱われている気がしてならない。青木の失言の回復以前に、インナーのTシャツの色とか、わざわざ口にしなかった、とか。毎回見られていたのだと思うと困る。次、なにを着ればいいのか迷うじゃないか。 「おまえ、きょうよかったの? 仕事」  とりあえず雑談で気を紛らわせた。 「大丈夫大丈夫、たまってる有給の消化ってだけ」 「ふーん」  そんなことを言いつつ、青木は瑞樹に休みを合わせることが多かった。以前なら、気が合うし、とか、つき合いが長いし、とか、ありきたりな関係と自分が傷つかないための言い分で回避できた。でもこの日はちがう。瑞樹の性的指向はバレたし、青木は突拍子もないことを言い出すし、会話のひとつひとつが窮屈になる。 「先輩、どっか行きたいとこある?」 「え、おまえ決めてたんじゃねえの? 遠出がどこまで遠いのか知らんけど」 「いやー、行き当たりばったり。葉山らへんでメシ食ってから芦ノ湖らへんまで走ろうかなーくらいの」 「ぜんぶ『らへん』じゃん」 「じゃあ、いっそ東京まで行く?」 「だるすぎる」 「はは、だよなあ」  変わらない青木に瑞樹の緊張はほどけた。笑ってしまって、力が抜ける。 「どうした?」 「んーん、なんでもない。ゴー葉山!」 「いうてすぐだけどな」  変化がないことにずっと焦燥していたくせに、この関係が変わることを今はおそれている。ひょっとして、色めいた関係なんかじゃなくてこのままのほうが断然安定感があるんじゃないか、なんて。切望していた関係より、友達以上〇〇未満の〇〇の部分が抜けた曖昧な間柄のほうが、ずっと。  青木が安全運転するのが自転車から車に代わって、瑞樹が盗み見るのが背中じゃなくて横顔になったことだってそう。笑うと口角が上がるところや、後頭部の丸みをきれいに見せるカットがなにげないポイントだとか、首筋にあるちいさいほくろが実は好き、と思うことだって同じ。  ひとりで楽しむことはいくらでもできるし、嫌われる心配もない。ということは逆に、瑞樹が青木に失望する出来事も起きないのだ。傷つくこともないなら、傷つけられることもない。マッチングアプリのことだって、ずっと黙っていられる。 「先輩、この店どうよ」 「え、あ、うん」 「大丈夫? 降りるよ」  はっとして、背筋が粟立った。このままでいたい理由が、とんでもなく自分勝手でぞっとした。黙っていれば、バレなければ。でも、だれにだって、隠し事をする権利はあるんじゃないの? 息苦しさを相手に伝えて、アピールして、身近な他人に救われるだけが人間関係じゃないだろう。
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