雨をすぎれば

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 だからもう、青木のこういうところがいやなんだ。打ち明けたくもない話を不幸自慢みたいにさらしてしまった醜態。幻滅した? あるいは同情か? どれもこれも勘弁してほしい。瑞樹は首を振り、拒絶を示す。 「あんたの話はぜんぶ、見えない敵に向かって吠えてるだけだろ。いるかどうかもわからない敵と、起こってもないことを持ち出されたら俺はどうすりゃいいの」  腹が立った。重なる手を振りほどき、青木に向き合う。 「見えない敵は存在するんだよ! おれの中に! 青木にはわかんねえよ!」 「わかんなくちゃだめなの? つーかだれもわかんねえだろうよ、他人の気持ちなんて」  そんな正しい言葉、幾度となく通りすぎてきた。自分で唱えて、やりすごしてきた。なのに青木は退くことをしない。振りほどいたはずの手が、もう一度近づく。瑞樹の手を取り、強く握る。 「先輩だって、俺があんたをすげえ好きだってこと、わかってない。だからもう勘違いなんて言うなよ、頼むから」  訴えるほどの低い声で懇願するように、青木は瑞樹の手を握り直した。瑞樹は息を呑んだ。尾骶骨から背筋に向かって、体の芯が揺れていく。 「ひと前で、無防備に指なんて舐めんなよ。まじで触りたかった、やばかった、人権失うかと思った」  一瞬なんのことか訝ったが、カフェでの青木を思い出した。嬉しいと純粋に思った。だけど、でも。  ポケットの中のスマホが音を立てた。どきりとした。アプリ関連の通知ではないかもしれないのに、この先も音が鳴るたびにびくつくのだろうか。アプリを退会しても、罪悪感に襲われて。  だめだ、もう。 「おれだって、こんなこと言いたくねえよ、でも無理、だめ。ごめん。おれマッチングアプリしてた。この間のひともそうだよ、ほかにもいる、たくさん寝てきた、おまえの言う恋人以外の男に触られたし触ってきた、やべえだろ、無理だろ、そういうのを青木に隠してきたんだよ、ぜんぶ」  青木の表情が固まった。そのあと、眉根を寄せた。困惑しているのか、もしくは今度こそ瑞樹の所業に引いたのかもしれない。けれど手のひらは取られたままで、握られた箇所だけがじんじん痺れた。 「先輩、これからもあいつに会うの?」 「え?」 「あいつ、ホテルにいたやつ。また会ったりすんの?」  首を振れない、否定できない、だって自分の意志でそうしてきた。  たとえだれかを青木に見立てていたところで、実質自慰行為だったとして、瑞樹が何人もの男とセックスしてきたことは真実だった。ひとりひとり固有名詞があって顔も体もちがう、青木ではない別のひとと。 「もうやめろよ、会うなよ。逆に聞くけど、それって楽しい?」 「んなわけ……!」  そこまで言って唇を噛む。心の証明なんて他人にできない。言い訳に過ぎない。淫乱、セックス大好き、だれとでも寝る男、青木の前で永野瑞樹は、そんなもんでしかなくなったのかもしれない。  フロントガラスの前を、男性がひとり通りすぎた。おそらくアパートの住人なのだろうが、知りもしない他人だった。暗がりの中、一度振り返って去っていく。たとえばもしも、あの男がマッチングアプリで出会ったいつかの相手だったとしたらどうしよう。瑞樹が覚えていないだけで。  体が急激に凍えた。こわくなった。おそろしくなった。だれもおれを見ないで。  顔をうつむけ、してきたことの後悔に怯え、青木の手を外そうとした。けれど外れない。青木はどうあっても瑞樹を逃そうとしなかった。  こわい。苦しい。つらい。高熱を出したあの日のようだ。このままならなさが一生続くんじゃないかという恐怖、行き止まり。ちらりと外を見やっても、この日は雨が降っていない。フロントガラスにも、車のボディにも、落ちてはくれない。  雨よ降れ。美しくなくていい、淀んだ塊でいい。今すぐ降れ。 「とにかくもう、ほかの男と寝るな」 「え?」
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