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答えない青木に苛立ち、気づけば右手を振り上げ、青木の頬に向けて勢いよく下ろしていた。鈍い音が車内に反響し、同時に瑞樹の手のひらにも痺れたような痛みが襲う。
「一発殴らせろてめえ! ぶっ飛ばしてやる!」
「いってえな! もう殴ってんじゃねえかよ!」
はたとして、勢いで殴っていた自分の手のひらを見た。なんの変哲もないこの手は、かすかに震えている。はじめてひとを殴ったせいか、はじめて性的に触れ合ったからか。
好きなひととの、はじめての。
「おれが、だれとでも寝るからしたの?」
震える右手を、自分の左手で包んだ。
「ちょろいって思った? だから謝ったの?」
青木を責めて、右手だけを包んでも、こんなことじゃごまかされない自分のふがいなさに、嫌気が差した。
「謝ってほしいなんて、おれは言ってない。そういうつもりならぶっ殺す」
もう帰る。
呆然とする青木を無視して助手席のドアを開けて外に出た。追いかけられないようにアパートの脇道を走って抜け、頭を冷やそうと大通りに出る。街灯だらけの明るい歩道に目がくらみ、高速道路の渋滞を思い出す。
ちいさなひとつの世界、灯りの中をふたりだけで進む道。あんなの、現実はただの交通渋滞でしかなかった。ここに比べたらぜんぜん明るくない。紛れてもいない。正反対のきらびやかさに身じろぎ、うろたえながらも行き交うひとたちに紛れた。好きな男の残り香なんて、あっさり消える。数メートル歩いて振り返るも、だれもいない。
くそ青木ばか青木くそったれ青木。
売り言葉に買い言葉だった。青木に悪意や、他意もなかったかもしれない。お互いに苛立っていたし、言葉も行動も収集もつかなかった。でも。
ポケットに入れていたスマホが震え、自然と取り出していた。一縷の望みに縋った。
――たびたびすみません。北村です。
たびたび? とメールボックスを見直すと、数十分前にも北村からのメールを一件受信していた。あのとき鳴ったのは、これだったのか。ふーっと呼吸を落ち着け、メールを開いた。
――そろそろケンカしたんじゃないですか? なんてね。助けてほしいでしょう?
思い切り舌打ちをかまして、スマホをアスファルトに叩きつけてやりたくなる。けれどこの足は立ち止まり、歩道に立ち尽くし、目は灯りが散らばる世間を見渡す。この中の光の一部に、なんの気ないひと混みの一端に、縋りつきたい。
ほしくて望んで、知らない男に抱かれたんじゃない。
北村にメールを返信するこの指で、ようやく世間のひとつに紛れた気がした。
待ち合わせた駅のこの時間は、まだひとが多い。南口にいるよう伝えられていたので、隅にもたれて待っていた。一日曇天だったこの日は、雨が降りそうで降らない。気温だけがぐんぐん下がり、朝から灰色だった空は瑞樹をいっそう鬱々とさせる。
いっそ降ってくれたらいいのに。
あおのくと、夜に包まれた空は真っ暗だった。厚い雲さえ、もうわからなくなっている。
改札口を往来するひとたちが、視界に入っては流れて消えた。そればかりをずっと追っていたら、次第に照準が合わなくなってくる。なんでこんなところにいるんだろう。
北村からの一件目のメールは、くだんの食事についてだった。その後、例の苛立つメールが届いていた。すぐに返信するのも癪に障ったが、ムカつきます、と書いて送信してしまった。
――なにがですか?
――青木も、あんたも。
――ね? だから言ったでしょ。ケンカしてませんかって。
ここでしばらく、返信しなかった。彼の好意を逆手に取っているのだろうか。彼には甘えられると無意識に思っているから、こうして思わせぶりな文章を打つのだろうか。浅ましくて、自分にも苛立った。
――とりあえず、メシでも行きましょう。クラフトビールがうまい店あるんです。
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